38.習い事

 エリカさんの習い事は曜日によって決まっていた。

 月曜日は習字。これは比較的簡単だ。エリカさんの字で書けばいいだけ。

 なんて思っていた。


「……基本からやってみましょうか」

「私」の字で書いたはずなのに、先生は納得しなかった。

 止め、ハネ、払いの練習からさせられた。


 俺にはなにが違うのかわからなかった。


 

 ◆ ◆ ◆


 

 火曜日は茶道。茶道はまったく経験がない。とにかくわからないことしかなかった。

 着物を着せてもらい、部屋に入った段階で怒られた。

 立ち方、歩き方からなっていない、と。

 お茶を点てることすら叶わなかった。


 水曜日は華道。華道ももちろん経験がない。が、とにかく空間を意識して花を挿せばいい、という知識はあった。

 自分なりの知識で頑張って完成まではこぎつけたはいいものの、先生は不思議そうな顔をしていた。

「……まだ未完成ですよね?」

 俺は終わったつもりだった。これ以上、どうすることもできなかった。


 木曜日はピアノだ。ピアノも経験無いが、ある程度体が覚えていたみたいでドレミファソラシドぐらいは引けた。

 あと、猫踏んじゃったもいけた。

 が、譜面は読めなかった。

 これがファだから……と逆算して読むことは可能だったが、オタマジャクシがどの音か瞬時には判断できない。

 先生には不思議がられた。 


 エリカさんの習い事は多い。

 習字、茶道、華道、ピアノ、そして金曜日は水泳。なんと驚きの週五で習い事に通っていたようだ。

 六歳の子どもにここまで叩き込むなんて凄まじい、と思いつつもこれをこなせるエリカさんは才女だったのだろうと思う。


 そしてほぼすべての習い事が、どう見ても前より悪くなっていたのだろう。

 先生方の反応を見ればわかる。

 いくら知識がないとは言え、六歳児以下。

 俺はこの数日で、エリカさんに勝てたものが一つもなかった。


 エリカさんがとんでもなくハイスペックだった、という可能性は大いにあるが、それにしても、だろう。

 割りと本気で傷ついたし、胸が痛くなってきた。

 俺はこれから、この子に追いつけるのだろうか。



 ◆ ◆ ◆



 今日は金曜日。習い事は水泳。

 プールは好きだった。小学生のころ水泳教室に通っていて、泳げたっていうのもあるが。


「エリカさん、お久しぶりです」

 若い女性の方に話しかけられた。誰? とは思っても顔には出せない。

「お久しぶりです」

 こうやって知っているふうに対応するのも慣れてきた。


「大きな事故だったと聞いていましたから……ご無事でなによりです」

「ご心配おかけしました」

 ぺこり、と軽く頭を下げておく。


 ふふっと相好を崩して笑みを浮かべている。

 柔らかい笑顔が素敵な女性で、競泳水着の上にジャージを着ている。おそらく「私」の先生だ。



「今日は久々ですし、ゆったりやりましょうか」

 そう言いながら先生は歩き始め、扉を開けたので中に入ると、そこは更衣室だった。

 もちろん女子更衣室。


 誰か居たら気まずいな……と思って足を踏み入れたが、誰もいなかった。

 というより、プールの方から音も声も聞こえない。


「さ、着替えましょうか」

 そう言って先生は「私」の荷物の中から水着を取り出した。

 着替えを手伝ってくれるらしい。

 普段だったらありがた迷惑だったが、今回は着たことがない水着なのでありがたい。


 用意されていた水着はいわゆる競泳水着みたいなタイプだった。

 先生は、まず太ももに当たる部分の生地を一部裏返していた。よく見ると、滑り止めらしきものがついている。

 それから水着に両足を通して、少しずつ生地をぐいぐい上に引っ張り上げていく。

 かなりキチキチでピッチピチだ。思ったよりもキツイ。

 それを先生が手伝ってくれる。てか先生の名前なんだろう。今更聞けないんだけど。


 腰あたりまで生地を上げたら、肩にかける紐へと腕を通して、またぐいぐいと生地を上まで持ってきて、胸を隠す。最後に、裏返していた生地を戻して完成。

 ピッチィィィとしててちょっと気持ちいい。スポーツ用のアンダーシャツみたいな、ぴっちりした服を着たとき特有の気持ちよさだ。


 これで俺も女性モノ水着デビュー。

 恥ずかしいというか、いたたまれなさというか、なんというべきか。複雑な気持ちだ。


 よし、プール行くか~、と意気込んでいると後ろから声をかけられた。

「エリカさん、髪を縛ってもよろしいでしょうか」

 そうだった。この長い髪を忘れてた。


 鏡の前の椅子に案内され、そこで髪を縛ってもらう。

 先生は「私」の髪をブラシで梳き、なんかよくわからないけど凄いねじねじと編み込んでいる。

 鏡越しに見ると、三つ編みみたいになった髪束を、水泳帽の中に綺麗に収めている。

 上手いな、この人。


「では行きましょうか」

 やっとプールだ。



 眼前に広がる、50メートルの8コース。

 ガチだ。ガチプールだ。

 壁も床も綺麗で、とても素敵だが、人っ子一人いなかった。

 プールは貸し切りみたいだ。


 正直、テンション上がる。

 こんだけ綺麗なプールが貸し切りなんてテンション上がらないわけなくないか?


 先生は準備をしてくる、と言ってどこかに行った。

 波打つわけでもなく、ただただ静かなプールに一人だけ佇む「私」

 大人しく待っていようか、とも思ったが久々のプールを目の前にして、泳ぎたいという気持ちが高まる。

 プールサイドに座り、水面に少し足を付けてみた。


 すると、なんと驚き。温水だ。

 いや、今どき温水なんて当たり前なのかもしれないが。


 凄いテンション上がってきた。

 だってこれが貸し切りだぞ? テンション上がらないわけなくない?


 じゃぷん、と音を立ててプールに入って気がつく。

 水深はちょうど「私」の胸まで浸かるぐらいの高さになっていた。

 凄い、マジで凄い。多分準備してくれてるんだ。「私」のためだけに。


 バチクソテンションが上がる。


 久々にちゃんと泳ぎたい。この最高の環境で。泳がざるを得ない。

 そういう気持ちが溢れてきた。


 プールの端に移動してゴーグルを装着する。息を大きく吸って、肺に酸素を取り込む。二回繰り返して体全体に酸素を巡らせる。

 膝を曲げ、水面に潜る。それから床から足を離して、壁を蹴る。



 すっと伸びていく。

 水着のおかげが、凹凸の少ない体のおかげか。水の抵抗をあまり感じなかった。

 ……いくら小学生とは言え、女性に失礼だった気がするので水着のおかげにしておこう。

 するすると水をかき分け浮上する。

 そこからクロールを開始する。


 息継ぎのたび、広い場内に水を蹴る音が響いているのが聞こえる。

 久々の水泳だったけど、意外とできるものだ。クロールも自転車も一度できるようになったら忘れないのだろうか。


 が、思ったより進まない。

 バタ足が弱いのか、手も小さいのか水をつかめない。

 そしてなにより、苦しい。

 息継ぎは出来ているのに、体がついてきてない。

 めちゃくちゃ苦しい。


 水底に25メートルラインが見えたので一旦、顔を上げて、水底に足を付けた。


 予想通りとも言えた。この子の体力の無さは理解している。

 すでに呼吸は上がり、体全体が倦怠感を訴え始めている。

「俺」だったころとは全然違う。ここまで貧弱じゃなかった。


 荒い息を上げながら、ゴーグルをおでこまで持ち上げる。

 クリアになった視界。すぐ目の前には先生が居た。


「エリカさん、いつの間に25メートルも泳げるようになったのですか……?」





 え?





 ハァ、ハァ、と必死に酸素を求める音だけが場内に響く。


 やってしまった。今までの習い事、すべてが自分より出来てるこの子だったから油断した。

 そりゃそうだ。六歳の女の子だ。泳げない可能性だってあったんだ。

 まずい、まずすぎる。

 全然頭が回らない!

 なにか、なにか言い訳をしないと!


「こ、この前、テレビで泳いでいる人を見て……真似してみました!」





 二人の間には静寂がある。

 が、場内にはあいも変わらず「私」の呼吸音だけが嫌に大きく響いている。

 俺にはこの数秒が永遠にも感じられた。

 ついに「俺」の尻尾を掴まれた。そんな気がした。






「そうなのですか! さすがエリカさん! 真似するだけで出来てしまうとは!」

 え? 逆にいいの?


 なんかうんうん唸ってるし、誤魔化せたっぽい。

 なんだ「さすがエリカさん」って。

 いくらなんでもテレビでクロール見ただけでできるようになるわけないだろ……


 実はこの先生、かなり抜けてる人なんじゃないか?

 まあこの人相手ならバレにくそうだ。ありがたく気持ちよく泳がせてもらおう。


「でもまずは準備運動からですよ」

 ちゃんとしている人だった。

 


 間一髪、なのか、なんとかなった。

 しかし、プールを目の前にしてテンション上がるってクソガキと一緒だ。あまりにも浅慮。

 久々に泳ぐのが気持ちよくて何も考えていなかった。がっぱがっぱ泳いでしまった。

 反省しないと。


 なんて思っていたけど、このあと普通に平泳ぎを見せてしまった。

 そしてめちゃくちゃ先生に褒められた。

 正直気分がいい。しかもフォームも正してくれる。


 てかこの人なにやっても褒めてくれる。

 この一週間、ずっとエリカさんに辛酸を嘗めさせられていたので嬉しかった。


 あっという間に楽しい二時間が終わってしまった。

 次回が楽しみだ。

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