7.母と風呂

 目が覚めたときにはもう部屋は暗くなっていた。

 あのままベッドで眠ってしまっていたようだ。

 

 この部屋の電気を探そうと考えベッドから足を下ろすと、床は物で溢れていることに気がついた。

 踏みつけないように足元を慎重に探りながら、部屋の入り口付近まで移動する。

 壁際を手で探りながら、電気のスイッチを押すと室内の現状が目に飛び込んできた。

 

 俺が散らかした様々な物。

 結局、このすべてにエリカさんの魂らしきものは感じられなかった。

 まずはこれを、元の定位置に戻さないといけない。

 

 散らかしたおもちゃを拾い上げる途中、ふと姿見が目に入った。

 まるで自分とは思えない姿がそこには映る。

 目元の涙の跡を手の甲で拭いながら考えを巡らせる。

 

 そういえば、帰ってきたときの服のまま寝てしまった。

 そろそろ着替えたほうがいいか? いやそれよりもお腹が空いている。

 この家の夕飯は何時なんだ?

 本当にわからないことだらけだ。

 

 部屋の片付けもそこそこに一度部屋を出てキッチンを漁ってみることにした。空腹には変えられない。


 ニ階の自室から下に降りてキッチンに入ってみると人がいた。中年の女性。もちろん誰かわからない。

「お嬢様、夕食はいかがいたしますか?」

 この家の使用人の方なのだろうか。わからんが「お願いします」と言ってみた。

 空腹には変えられない。



 ◆ ◆ ◆



 メシは美味かった。

 ハンバーグ、というと庶民的に聞こえるが、質が全然違う。

 盛り付けから高級店みたいな見た目で味も今まで食べたことのない上品なハンバーグだった。

 しかも米が出てこない。パンが出てきた。そのパンもうまい。


 ……気がついたら夢中で食べていた。

 あの使用人の方は元料理人なのだろうか。

 家でこのレベルが出てくるのは驚きだ。正直感動している。

 明日の朝食が楽しみだ。



 部屋に戻り、片付けを再開ながら今後のことについて考えることにした。


 今すぐ、彼女に体を返すことはできない。もうそれは認めるしかない。

 エリカさんの魂がどこにあるのかまったく見当がついていない以上、下手に動けない。強引に動いて両親に不審がられると、説明ができないからだ。

 まずはエリカさんとして生活を続けていく。その中で、エリカさんの魂の在り処についての情報を集める。確信を得たら行動する。これが最善だろう。

 ある程度は長期的に考えた方がいい気もしている。


 現時点で俺にできることは三つ。


 一つは「緑園寺 恵莉夏」を完璧に演じることだ。

 彼女が戻ってきたとき、おかしな状況になっていないように。

 いつ彼女と交代しても不自然にならないように振る舞い続ける。


 ちなみに漢字がわかったのはさっき持ち物を漁っていたとき、ノートに名前が書いてあったからだ。

 名字の漢字は想像通りだったが名前は予想とは違った。

 なんとなく「エリカ」という名前なら「花」か「華」を使うかと思ったが「夏」の字を使っている。

 しかし、どこかで聞いたことある気がしている。思い出せないが。知り合いに似たような名前がいたのかも。


 二つ目は日記をつけること。

 これも彼女が戻ってきたときに、自分の体が今まで何をやってきたのかを断片的でもいいので伝えるためだ。

 今回、俺が今までのエリカさんを知らなくて困っているように、エリカさんも多分戻ってきたら困るだろうからだ。

 昼間に部屋の物を全部引っ張り出したときに見つけた、めちゃくちゃシックでかっこいい装丁の手帳に書き込んでいくことにする。


 三つ目は言わずもがな、エリカさんの魂の在り処の情報を集めること。

 ただ、これに関しては情報を集める方法すら確立できていない。

 そもそも憑依とかいう、意味のわからない状況なので仕方がない。



 手帳に少しずつ、書き込んでいく。

 まずは前の自分のこと、今の状況、自分の考えなんかも全部書いていく。

 とりあえず、今は自分の思考の整理の意味も込めて。


 書き始めてからこんなこと言うのもなんだが、こんな凄い良さげなものがあったけどなんも書き込まれていなかった。

 しかも明らかに大人っぽい。

 これ、書き込んでいいヤツだったのだろうか。もしかしたらエリカさんが大事にしていたなにか思い出の品だったのかもしれない。

 ああ、もう本当にわからないことだらけだ。もし大事なものなら勝手に使って申し訳なかったとも書いておこう。



 ◆ ◆ ◆



 日記を書いていると、扉を叩く音が聞こえてきた。

 はい、と返事をすると、扉が開き、美人なママンが顔を覗かせた。


「エリカさん、お夕食は召し上がりましたの?」

「はい、いただきました」

 にっこりしながらママ上が言った。

「では、お風呂、ご一緒しません?」


 何いってんだ?


 あ?

 ああ、そうか、そうだった。

 誘われているのは「俺」じゃない。

「私」だ。


 ……え? これ行っていいの?

 俺、入っちゃっていいのか?

 ダンディパッパに怒られない? いやバレたら絶対怒られる。てか殺されるのでは?

 いやまて、この誘ってくる感じ、この子はまだ母と毎日一緒に入ってるんじゃないか?

 そりゃそうだまだ六歳だぞ? 一人でお風呂に入るはずがない。だったらここは一緒に入ったほうが自然なのではないだろうか。いやしかしいいのか? 完全に人妻だぞ? 人妻の裸を見てしまっていいのか? 不貞を働いたと思われ「エリカさん? 今日はやめておきますか?」


 今日は? やっぱり毎日入っているのか。

 ここは行くしかない。すまん! パパ上!! すべてが済んだら謝ろう。


「いえ、入ります!」

「そうですか! じゃあ行きましょう!」

 すげぇ嬉しそうにしている。本当に愛されているんだろうな。この子は。


 俺の心は複雑な罪悪感でいっぱいだった。



「エリカさん、お体の調子はいかがかしら?」

 てか今更気がついたけど、この人お嬢様言葉だ。

 リアルお嬢様言葉、始めて聞いた……

「大丈夫です。問題ありません」


「今日、退院して帰ってきてから今まで寝てしまっていたんですってね。ヤストさんから聞きましたわよ」

 ヤストさん、とは誰のことだろうか。あのダンディパッパのことだろうか。

 だとするとあのダンディ、勝手に入っていたのか。ダンディ覗き魔め。

 いや、自分の娘だからいいのか?

「入院しててあまり運動していなかったので、ちょっと家の中を散歩していたんです。そしたら疲れてしまって……」

 まあ! と驚いた顔をされた。


 またこれかよ! もう何が地雷かわかんねーよ!!

「私」が家の中を歩くの、そんなにおかしいのか!

 そうかそうか、わかったぞ!

 二度と家の中は歩かんぞ!!!


 と心で思っていても心臓がバクバク跳ね上がってる。

 怖くなってまたしても引きつった笑顔をみせてしまった。


「エリカさんが元気そうでよかったですわぁ~」

 満面の笑顔だ。美しい。

 切れ長の目でキリッとした印象の人なのに、どこかほんわかしている。

 抜けている人なのかもしれない。

 人って意外と娘の中身が入れ替わっても気が付かないもんなんだな。



 そんな話をしていたら脱衣所に到着したようだ。中はもちろん広い。

 洗濯機とかそういうのはない。多分洗濯は別の部屋があるんだろう。そりゃそうだろうな。絶対残り湯とか使って洗濯しないだろうし。

「さ、エリカさん、腕をお上げになって」

 あ、俺脱がされるの?

 どうしよう、今後もこれはちょっと恥ずかしいな。

「いえ、そろそろ一人でできるようになりたいので、今日からは自分で脱ぎます」

「あらそう? 残念だわ……」

 残念そうにされた。脱がされてあげたほうが良かったのかもしれない。


 しかし、自分で脱ぐのも……

 ああ、申し訳ないエリカさん。

 ついに全裸を見ることになってしまうとは……

 まぁもうしゃあないか! トイレも見てるし! どうしょうもないしな!

 てか自分の体だからかなんにも感じないし。


 ふと隣を見てみると、ママ上も脱ぎ始めていた。

 薄着になっていく「私」の母はとてもスレンダーで綺麗な体だった。

 胸はそう大きい方じゃないが、無いわけじゃない。

 全体的に細い。だが、ただ細いだけじゃない。痩せている、のではなく、ちゃんと維持している細さだ。


 何かしらの運動をしている人間の筋肉の付き方。

 首元、胸元、肩、腕、腰のくびれ、尻、太もも、ふくらはぎ。その筋肉の上に薄っすらと脂肪が乗る。

 女性としての柔らかさもありながら、芯のある身体。

 美しいボディバランス。均整の取れた体。もちろん、関節周りには年齢を感じるシワもある。

 だが、それでも。


 今まで俺が抱いてきた女とはまったく別次元だった。

 痩せているだけの骨ばった女ではなく、ちゃんと「細い」体だ。

 その美しさに感動すら覚える。

 人の体に、女の体に感動を覚えるのは始めてだった。


 感動に震えて俺は思わず、手を伸ばしてしまった。

 お腹をぺたぺた触る。

 女性特有の柔肌の感触の奥底から押し返す筋肉を小さな手を通して感じる。決して硬い感触ではない、柔らかくもありながらしなやかなさわり心地。

 素晴らしく、美しい肉体。日常的な努力。その跡を感じられる。

「? エリカさん、どうしましたの?」



 だが、驚くことに。



 びっくりするほど興奮しない。



 こんな美人で、美しい裸体が目の前にあるのに。


 体が女になったせいなのか、この体の親だからなのか。それとも綺麗すぎて劣情すら抱かないのか。

 なんにせよ、この人に対して男性としての気持ちの一切が湧き上がらなかった。


 なんかアホらしくなったのでむしろじっくり見ておこう。生きる芸術品として。

 ママ上は不思議そうな顔をしていた。





 バカでかいお風呂、ってほどではないけど、一般家庭の風呂と比較するとバカでかかった。

 浴槽は大人六人ぐらいが入っても余裕がありそうな広さで、お湯は出っぱなしのジャグジー付き、おまけにサウナまである。なんだこれ最高か?


 うっわーサウナ入りてぇ~。でも六歳の女の子がサウナ入りてぇって思うわけないよな……

 今度一人でこっそり入らせてもらおう。そうしよう。


「さ、エリカさん、こちらに」

 素直に椅子に座ると頭に櫛を通される。

 気持ちいい。頭皮がマッサージされてる感じ。たまに引っかかってアーってなるけど。ひっかかると優しく手ぐしで解いてくれる。

 てかなにこれ? なにされんの? と思ったらお湯で流された。


 え? なんで髪洗うのに櫛通したの?

 もしかして髪長いからそういうのも必要なのか?

 女の子って大変だなぁ……なんてことを考えながら髪をお湯で流され続けた。


 目を瞑ってしばらくしていると、プッシュ音が二回。

 少し擦る音。それから髪の毛に少し冷たい「私」の母の指が通っていく。

 優しくもしっかりと頭皮をマッサージしていく細指の感触の心地よさに目を細める。

 髪を含めて、頭皮全体をよく洗われる。


 ……


 結構長い。気持ち良いからいいが、男の感覚だと長い。

 髪が長いとそんなもんなのかもしれないが、三分ぐらいやっている気がする。

 なんて思っていたら洗い流された。


 またプッシュ音が二回。トリートメントだろうか。

 毛先から髪の毛全体になじませていく。


 髪の毛を揉みながら「私」の母は口を開いた。

「エリカさん、体調はどうですか? 頭が痛いとかありませんか?」

「はい、大丈夫です」

 至って健康だ。なんなら家の散策すらしていたぐらいだ。

 頭がくらくらするとか言ってしまったからか、余計な心配をかけてしまったかもしれない。


「それなら、明日から学校に行ってみますか?」

 そういえば六歳。小学一年生か。つまり今年七歳。誕生日はまだってことか。

 行かないほうが都合は良さそうだが休みすぎても変だし、いつかは行かなければいかないか……

「急ぐ必要はないとは思いますが……」

「そうですね。行きます!」

「まぁ! では学校には連絡を入れておきますわ」

 なぜかママ上は喜んでいる。なんか俺が何言っても喜びそうだ。

 しかし、久々の小学校か。ちょっと楽しみかもしれない。


 今は五月。エリカさんは入学して一ヶ月ちょっとで事故って入院か。

 つくづくこの子は不憫だ。


 トリートメントを洗い流してもらって、頭にタオルを巻かれる。なるほど、髪が湯船に浸からないようにか。やっぱり髪が長いと面倒だ。

「さ、終わりですわ」

 湯船へ行け、ということだろうか。素直に湯船に入る。


 洗ってもらった頭は頭皮が少しスッとした感じがするが、男物のようなさっぱり感はあまり感じられない。

 というか今後、自分でこれやらないといけないのか。この子のためにも。

 ……めんどくさいが、仕方がない。だいたい手順は覚えたから次からは頑張ろう。


 ママ上は自分で髪を洗っている。いや、整えているというのが正しいのか。しかし後ろ姿も美しい。そういえば何歳なんだろうか。


 しかし、そうか、小学校か。

 二十七歳で小学生になるのか……


 ま、仕方がない。この子のためだ。自然と小学生を演じきってやろう。

 今までなんだかんだでやってこれたんだし、小学生は一度経験している。

 行けるだろう。やってやろうじゃん。

 どうせ最先端のベーゴマとか虫の王とか遊戯の王とかの話だろ。それかポケットの中のモンスターかそこらへんだ。余裕だ。なんだったらデジタルなモンスターの話でもいいぞ。俺は大人になってから見た初代の話しかできんが。

 この家は金持ちだ。話についていくためのおもちゃぐらいは買ってもらえるだろう。

 うん、行けそうだ。自信出てきた。


 自分の体を見下ろす。

 全体的に未発達な体。そして股には完全に無い。



 天井を見上げる。



 忘れていた。

 そういえば、自分は、女になっていたのだと。


 小学生男児なら経験がある。

 時代が変わっても男子はそうそう変わらん。みんなバカガキだ。

 見てもいないがどうせそうだろう。

 だが小学生女児。まったくわからん。

 今から日曜朝のアニメを視聴をしたほうがいいのだろうか。それともなんか人形とか、おままごととかそういう時代だったか……


 いや待て、なにを焦っているんだ。

 現役JSであるエリカさんの部屋の中のアイテムから考えればいいじゃないか。

 あそこにあったアイテムこそが、今の小学一年生女児のマストアイテムってことだ。


 つまり……





 なに?

 わからん。

 超シックでかっけぇ手帳ぐらいしか覚えてない。

 着せ替え人形とかあったけど名前がわからん。他にも色々あったけど全部なんのアイテムなのかわからん。



 困った。

 ネットで調べたいところだが家を歩き回ったときにコンピューター的な物が見当たらなかった。エリカさんの荷物を全部広げたときにもスマホどころかガラケーすらなかった。

 インターネッツ縛りだ。


 もちろん、誰かに聞けば使える場所まで案内してもらえるだろうけど、母に家の中を歩き回っただけで驚かれたお嬢様だ。

 あまりアクティブになりすぎても不自然だろう。


 これは当日現場で臨機応変に対応しろ、ってヤツかもしれない。絶対やりたくないタイプの仕事だ。

 マズいよなぁ……なんて思っていると隣にママ上がいた。ふつくしい。


「考え事ですの?」

「はい、学校について少し不安で……」

 つい本音が漏れてしまった。

 ママ上の顔は綺麗系で少し近寄りがたい印象を受けるが、雰囲気は優しげで柔らかい。だからか、油断してしまう。


「大丈夫ですわ。エリカさんはお勉強が得意ですし、すぐについて行けますわ」

 なるほど、エリカさんは勉強できたのか。

「お友達もすぐできますわ」

 今はいないってことか? むしろ好都合だ。


「そ、そうですか。では、頑張ってみます」

「エリカさんはこんなに可愛いんですもの、大丈夫ですわ」


 すっと抱き寄せられる。

 触れた場所が柔らかく、湯よりも熱を感じる。

 こちらに向けられる、柔らかい笑顔。慈愛。その目は「私」を捉えていたけど、「俺」は目を離せなかった。

 胸から温かいものが溢れてくる。それこそ湯なんかよりも、もっと、熱い。

「俺」が覚えていない感情が。


 黙ってその目を見つめていると「私」の母は続けた。

「エリカさんが、これからどんな方になっていくのか。わたくし、今から楽しみですわ」

 変わらない、柔らかい笑顔。


 だがその目は、「私」の目を見ているようで、その奥、


「俺」を見ているかのように感じた。

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