23.お小遣い要求

 リビングに行くと母がお茶を飲みながら書類を読んでいた。下はスポーティーなスキニー、上はおへそが見えるぐらい丈が短いシャツ。運動していたのだろうか。

 服装とは裏腹に、書類に目を通しているその姿は真剣で、やり手のビジネスマンのようにも見える。

 

 服装が若いな、と思ったけどスタイルが良いから似合っている。ヨガの先生って言われたら「あ~」って納得しそうだ。

 というかママ上自体、若々しさがある。本当に二人産んでいるのだろうか。てかそもそも何歳なんだろう。


 そんなママ上は「私」の姿に気が付くと、笑顔で口を開いた。

「あら、エリカさん。お茶でも一緒にどうかしら」

 断る理由もない。ので「いただきます」と言い、自分も席についた。


 周りに使用人の方々が誰もいないので、誰がお茶を入れるのか、と思っているとママ上が入れてくれた。

 意外だ。わざわざメイドを雇うような上流階級の人が、自宅で、自分の手でお茶を入れるなんてことをするなんて思わなかった。俺の偏見だったのだろうか。

 偏見なんだろう。


 出てきたのは薄い色の……緑茶? いや、紅茶だろうか。わからない。

「いただきます」と言い、恐る恐る一口飲んでみた。

 美味い。口に入れた瞬間、爽やかな香りが鼻腔を通り抜け、味は……なんだろう、わからんけど繊細で深い感じ。表現できる語彙が無い。

 緑茶っぽいけど、多分紅茶だ。とにかく美味いと感じた。

 これはママ上の入れ方なのだろうか、それとも茶葉が良いのだろうか。どっちもかもしれない。

「美味しいです」と正直に伝えるとママ上はふふっと相好を崩した。


「これ、クラスメイトの綾小路さんからお返しに貰いました」

「まぁ! それはよかったですわね!」

 あれ、別に親同士のなんやかんや、みたいのって存在しないのかな。俺の考え過ぎだろうか。


「ところで、これはなんのお返しなんですの?」

「えーっと……泣いていたのでハンカチを貸したお礼です」

 泣かせたのも自分だということは黙っておこう。

「あら~! エリカさん、お優しいですわね。わたくし、鼻が高いですわぁ」

 実は自分で泣かせて、ハンカチを押し付けてお礼を受け取っている。こうやって聞くと当たり屋みたいだ。


「そのお方はなぜ泣いていたんですの?」

 聞かないでほしかった。こうなったら嘘をつくのも気が引けるので、もう正直に話す。

「実は、私が泣かせてしまったのです」

「あらまぁ! どうしてですの?」


 事の顛末を語る。四月の時点でいじめていたかは未確定なのでそれについては触れずに。

 自分が通路で立ち止まっていたせいで、後ろから来た綾小路さんの邪魔をしたので謝ったら泣かれた、と。


「ん~、どういうことですの?」

「自分でもよくわからないです」


 小首をかしげている。ママ上でもわからないみたいだ。

「エリカさんが泣かせてしまったのに、お返しをいただくというのも変な話ですわね」

「た、確かにそうですね。受け取らなかったほうがよかったでしょうか」

「いえ、受け取らないのも失礼ですわ。それに、借りたハンカチに対するお返しだと思いますし」

 そうなのかもしれない。ただ、相手をいじめていたならまた複雑な話になりそうだ。

「それよりも、勘違いだったとわかっていただけたようで、良かったですわね」

 ママ上の優しい笑顔。安心したような顔。なぜかこっちまで安心させられる。そんな魔力のある笑顔だった。


「このチョコレート、最近オープンしたばかりのお店ですわね」

 むむっと真剣な目をしながら綾小路さんがくれたチョコを睨んでいる。チョコが好きなのだろうか。

「食べましょうか?」

「いえ! お夕食の前ですから。ご飯が入らなくなってしまいますわ」

 一つひとつが小粒なチョコレートだが、女性の胃袋ならそんなもんなのか。

 家での食事は、会話を上手く続けなければならない緊張感の中で自分が食べることに精一杯だったのもあり、ママ上が食べている量をあまり見ていなかった。だが、極端に少食というイメージはない。


「それじゃあ、冷蔵庫にしまっておきますね」

「そ、そうですわね」

 そう言いながら、手をチョコ箱から離さない。

 ……すごく寂しそうな顔をしている。この人、本当にコロコロ表情が変わる。

「じゃあ、お互いに一つだけ食べませんか」

「! 仕方ないですわね。エリカさんがそこまで仰るならご相伴に預からせていただきますわ!」


 二人で仲良くチョコレートを一粒だけいただいた。めちゃくちゃ美味い。なんか凄まじいほどカカオの風味を感じるのに、甘みがちゃんとある。舌の上で解けていくのが幸せに感じる。

 これが高級チョコレートか、と感動を受けた。


 ママ上はほっぺを抑えながらう~~んと唸っていた。美味しそうだ。

「これは罪深い味ですこと……」

 なにがだろうか。


 罪深きチョコレートはリビングの冷蔵庫に無事封印された。

 この紅茶を飲み終えたら自室に戻ろうと考えていると、ママ上が口を開いた。

「エリカさん、体調の方はいかがですの?」


 体調……? ああ、色々ありすぎて忘れていたが昨日は体調不良ってことで帰ってきてたか。

「えーっと、問題ないです。明日もちゃんと学校行けます」

 ママ上は眉尻を下げながら「私」を向いている。心底心配なのだろう。

「エリカさん、絶対に無理はしなくていいですからね。少しでも気分が優れなかったらすぐお休みになられて?」

「はい、わかりました」

 それに対して、俺の返事は生返事だったかもしれない。

 正直、本当に問題ないので心配されても申し訳ないというか、どうも居心地の悪い感じがしている。


 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ママ上はふふっと小さく微笑んだ。

「なら学校は無理のないよう、このまま通いましょうか。習い事はどうしましょう? もう少し時間を開けましょうか?」

 習い事? 習字のことだろうか。聞いておこう。

「習字のことですか?」

「ええ、お習字もそうですが他の習い事も。エリカさんが通えそうであればいつでも通えますわ」

 他? 他にも習っているのか。まぁ断る理由もないだろう。通っておいたほうが自然だし、いずれ通うならさっさと行ったほうがいいだろう。

「じゃあ、全部再開します」

 ママ上は不安げな顔を見せながらも最後には笑った。

「では再来週から再開すると連絡しておきますわ」


 エリカさんが習字を習っているのはわかっていた。それはエリカさんの自室に習字バッグがあったからだ。

 だが、他の習い事に関してはその内容がまったくわからない。お金持ちだし、ピアノ、とかだろうか。

 俺がピアノやったことあるかって? もちろん無い。これは大丈夫なのだろうか。

 マズイな、また考え無しで動いてしまったかもしれない。


「大丈夫ですわ。エリカさんならすぐ取り戻せますから」

 心を読まれたかと思ってぎょっとしてしまう。不安そうな表情を読まれたのだろう。

 こっちの心労なんて知らないママ上はにっこり笑顔だ。

「こ、心を読まないでください」

「あら、心なんて読んでおりませんわ。表情を読んだだけですわ」

「同じことじゃないですか」

 ふふっと笑顔を湛える。

「どう感じているか、まではわかっても、何を考えているか、まではわかりませんわ」

 ママ上は紅茶を一口、含むと続けた。

「親だからって、何でもかんでもわかりませんわ」

 その一言には、やはりどこか自嘲げな色が見えて、俺は気になって仕方がなかった。


 リビングにママ上専属っぽい使用人の方が出てきた。

「奥様、お嬢様、夕食の準備が整いました」



 ◆ ◆ ◆



 謎の四角いゼリーの中になんか野菜とかいろいろ封じ込めたヤツを上品に食べていたパパ上はその手を止めた。

「お小遣い? 何に使うんだい?」

「えっと……」


 確かに。よくよく考えたら普段学校と家の行き来しかしていない子どもがどこで金を使うんだ? 投資しますって素直に言ってみるか? いやいや、六歳だぞ。ありえん。


「ヤストさん、いいんじゃありませんか? お金の使い方の勉強になると思いますし」

「まだ小学生だし、エリカには早いんじゃないか?」

「それに、女の子の買い物にあまり口を出すものじゃありませんわ」

 そう言われると男は弱い。俺もなんとなく言い返しにくい。唸るだけになるダンディ。


 ママ上はばちこりとウィンクしている。助けてくれたみたいだ。

 俺の困っている表情を読んで手を貸してくれたのかもしれない。

 ……俺、そんなに思っていることが表情に出ているのか?


 そんな母の助けもあってパパ上は「私」にお小遣いを与える決心が着いたようだ。ありがとうママ上。

「金額は……一万円ぐらいかな?」

 すっくな!! いや普通の小学一年生としては多いけど!

 こんな大豪邸に住んでいて、お嬢様のお小遣い一万円!?

 嘘でしょ、という気持ちを込めてママ上を見る。ママ上、俺の表情を読んで、助けてくれ。軽くウィンクしてみよう。


 ママ上は俺の目を見てにっこり笑った。わかってくれたかもしれない。



「そうですわね。それぐらいでいいと思いますわ」

 全然わかってなかった。


 まずいぞ。一万円が少額とは思わないが、投資を始めるための貯金としては少額だ。六年後、中学生になっても百万円にすらなっていない。

 投資は元の金額がデカければデカいほど、儲けもデカい。百万円から投資を始めたところで、家族四人を養えるほどの儲けを出す前に没落している。

 これでは意味がない。困ったぞ。


「そういえばミドリ、君が小学生のころのお小遣いはいくらだったんだい?」

「今その話はいいじゃありませんか。エリカさん、お小遣いは大切に使うんですわよ?」

 ママ上は先ほどと変わらない、にっこり笑顔を向けている。


 ……あれ? なにか隠したよな、今。


 俺は少し責めるような目でママ上を見やる。

「っ……そんな顔しなくてもいいじゃありませんこと?」

 恨めしそうに「私」を見ながら眉尻を下げている。なんとなく言いたいことがわかる。多分、「ちょっとした冗談ですわ。そんな冷たい目で見なくたっていいじゃありませんの……」だ。


「で、いくらだったんだい?」

「五百万……ぐらいでしたわ」

 マジで小学生が何に使うんだ。金額がデカすぎだろ。

「それは……多すぎるね……」

 パパ上もビビってる。てかちょっと引いてる。


 だが、これは俺にとってチャンスだ。

「私も、お母様と同じお小遣いがほしいです!」


 これならママ上はNOとは言えないだろう。あとはパパ上を攻略するだけだ。


「エリカ、そんな金額、本当に何に使うんだい?」

 確かにそれは親として知っておきたいか。そもそも自分で買い物にも行かないのに急にお小遣い要求だからな。心配だろう。

「なにか買いたいモノでもあるのかい?」


 

 逡巡する。高額なお小遣いを手に入れるため、この優れた頭脳を高速で回す。

 急速に血液が前頭葉へと向かって迸る。赤血球がビタビタと血管の中を暴れまわり、酸素を届けて行く。

 いわゆるシナプスが弾ける、というヤツだろうか。周囲の時間がスローになったかのように感じられるほどの速度で思考が回っている。

 暗雲立ち込める脳内の思考の海に、アイディアの光が高速で跳ね回り続ける。規則性、統一性、関連性の無い、何かが、形を成す。

 それはひらめき、洞察、悟り、神の啓示、宇宙からの交信。そう呼ばれる類のもの。

 一秒にも満たない刹那とも言える時間。


「私」の頭の中には高額なお小遣いを得るための道が見えた。


 前頭葉がじんじんと熱くなる。自分でも驚くほどの思考速度。

 俺は息を吸い込み、落ち着いてパパ上に向けて言葉を紡いでいく。


「プレゼントを贈りたい、と思っていまして」 

「それは綾小路さん、かしら?」

「綾小路さんもそうですが、他にもいまして……」

「まままさかままい、ままままま」

 ちょっとビビった。パパ上は舞浜の名前がトラウマになっているのかもしれない。今にも壊れそうだ。壊れかけのダンディだ。

 ……落ち着け、乱されるな。ヤツは勝手に乱れているだけ。

「光圀さんですか?」

 ママ上のフォローが入った。

「いえ、違いますよ」

「あら、それではどなたでしょう?」

「い、いわないとダメですか……?」

 俺は上目遣いで二人を見る。来い、釣れろ。釣れてくれ。


「エエエリカお、おお教えてくれ」

 来た! ダンディが釣れた!


「そ、その、お、お父様とお母様に、です……」

 本当はサプライズにしたかったのに、聞かれたから答えるしかなかった、という感じで少し伏し目で、悲しげに下を向く。


 完璧だ。完璧すぎる。

 これでパパ上は嬉しくて嬉しくて飛び跳ねたい気持ちと聞かなければ良かった、という気持ちを持つはずだ。こうなれば金額交渉に入りやすい。

 さぁあとは止めの一撃だ。

「その、だから、お二人が普段から使っているものを買うぐらいのお金はほしいな、って思っています……」





 静寂。

 俺の耳には空間が発生させている、なんとも言えない静寂だけが届いている。



 決まった。俺の勝ちだ。




 ちら、と二人の顔色を伺うと、驚愕した。





 泣いていた。

 それも父だけではなく、母も。


 パパ上は目頭を抑え、母上はハンカチで目元を抑えている。

「そうか……」

 そう呟いているパパ上。

 やりすぎたかもしれない。少し申し訳ない気持ちになってきた。


「エリカ、気持ちだけで私たちは十分嬉しいよ」

「そうですわ。エリカさん。お小遣いは自分のために使っていいんですわよ」

「い、いえ、その、これも自分のためで……」

 ダンディは立ち上がり、俺の元へ来て抱きしめてきた。めっちゃ上品で高級そうな香水の匂いする。ダンディ臭だ。


「エリカ、私たちはエリカからのプレゼントだったら金額なんて気にしないよ」

「で、でも……」

「いいんだ」

 パパ上はぎゅっと力強く「私」を抱きしめた。

 そういえば目覚めて一番最初に抱きしめてきたのもパパ上だったな、なんて思い出す。

 嫌な気持ちがしない。


「やっぱり、何を考えているかなんてわかりませんわ」

 ママ上はまだ目元を抑えながら、こう言った。



 ◆ ◆ ◆



 結局、お小遣いは変更されなかった。

 あの空気の中で値段交渉なんてできたもんじゃなかった。

 むしろ、思った以上の反応で気まずかった。


 あのセリフは想定以上の威力だったのか、俺の演技がうますぎたのか……

 どちらにせよ、泣かせるつもりはなかった。あそこまで感情を揺さぶるつもりはなかったのだが。

 少し申し訳ないことをした。


 結果としてお小遣い一万円という、小学一年生としては高額だが、将来のための貯金としては少なすぎる金額でフィニッシュだ。


 しかし、母の五百万は衝撃的だった。本当に小学生にお小遣いでそんな金額を渡す親が存在するとは。

 ……って考えると、そもそも百万貰える想定で考えていた自分もおかしかったのかもしれない。普通あり得ない金額だ。

 あれ、そのあり得ない金額を貰っていた母がいたのだから、百万ぐらいあり得るのか。

 ……? どういうことだ? なんで母は「私」のお小遣いが一万円で良いって判断したんだろうか。

 自分が五百万だったなら普通、少なすぎると思わないか?


 まぁ今はいい。とにかく目的のお小遣いは獲得できたが想定より少ない一万円だ。これからしばらくはお小遣い交渉できる感じもしない。俺もそこまで面の皮が厚くない。

 恐らく、ここから一家を養うほどの金額を十八歳までに生み出すのは不可能だ。

 とりあえず、貯金だけはしておいて、本当に家族へのプレゼント代にしよう。それでいい気がする。

 まぁ両親の誕生日どころか、自分の誕生日すら知らないんだが。


 ……そういえばパパ上に髪の縛り方を教わるのを忘れていた。

 ま、今度でもいいか。パパ上が暇なときにでも聞いてみよう。

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