24.午前授業

 朝、目覚ましの音で目が覚める。音の在り処を手探りで探し、なんとか止める。

 まどろみの中、布団から無理やり、強引に上体を起こす。

 これが二十七年間の間に鍛えた、二度寝防止技術。

 

 目の前にはここ数日で見慣れた子リスに似ている女性がいた。


「おはようございます、エリカお嬢様」

「……おはようございます」

「こちらを」

 ほかほかタオルが手渡される。今日は熱すぎない。

「ありがとうございます」

「本日のモーニングティーはいかがなさいますか?」

「あー……オススメで……」

「あ、朝はロ、ローズマリーがオススメです!」

「じゃあ、それでお願いします」


 毎朝ローズマリーしか飲んでいない。もう聞かないでローズマリーにしてくれないだろうか。

 というかそもそも、時期的に旬だからオススメ、とかじゃなくて、朝はローズマリーがいいのだろうか。まったくわからない。


 てかこのシステム、要らなくね?

 俺は要らないと思っている。別に朝からティーなんて小洒落たものを飲みたいなんて思っていない。もう缶コーヒーでいい。てか缶コーヒーが飲みたい。


 今日は土曜日。子リスさんは今日も働いている。この使用人の方々はいつお休みなのだろうか。

「ロ、ローズマリーのブレンドでございます」

 ブレンドってマジでなんなんだろう。


「今日もお仕事とは、大変ですねぇ」

「いえ、そんなことはありません!」

 あー……そりゃ雇い主の子どもの前ではそう答えるしかないよな。完全に質問が悪かった。

「お休みってあるんですか?」

「えっ!? に、日曜日はいつもお休みです……」

 お休みはあったらしい。

「週休二日は欲しいですよね」

「い、いえ、そんなことありません!」

 そんなことないのか? 俺は欲しかったよ。

 ローズマリーをすすりながら、ぼんやりと昔のことを思い出す。

 今日もローズマリーはうまい。多分。



 ◆ ◆ ◆



 髪をヘアバンドで留めて顔を洗う。

「私」の朝の準備はある程度自然にこなせるようになっていると思う。まだ三回目だが、人が朝にやることなんて金持ちだろうがそう大きく変わらない。

 平日のルーティンは理解したので毎日それっぽくこなすだけだ。会話と行動に注意しながら。

 

 ただ、ボロが出ている気はしている。

 そもそも、元を知っているわけでもない、完全な別人になりきるなんて不可能だ。

 最初に両親を騙せたので、意外とバレないものだ、と思ってしまったのが俺の勘違いを強めた。普通に考えれば完璧に演じられるわけがない。

 無意識に「エリカさん」ではなく「俺」が出てしまう。


 だが、もしエリカさんだったらどうしていただろうか、と考えても正解がわからない。なぜなら以前のエリカさんを知らないから。

 この根本的な問題を解決できない以上、その場での予測となんとなくの雰囲気で「エリカさん」を演じ続けるしかない。


 そうなるとやはり「別人だな」と言われるわけで。俺は完璧にエリカさんを演じられていないことをまざまざと突きつけられる。

 そもそも不可能なのだ。

 だけど、辞めるわけにはいかない。

 不格好でも、続けるしかない。


 明日は日曜日。休みだ。


 あと一日。頑張ろう。



 ◆ ◆ ◆



 学校へと向かう送迎車の中で考える。


 俺が小学生のころには土曜日の午前授業はもうなかった。いわゆる完全なゆとり世代だったからだ。

 今の子たちは月に一回か二回は土曜日も学校に行くなんて大変だな、と思うけど午前授業ってなんか特別な日感があっていいよね、とも思ってる。

 少しだけ新鮮な気持ちを覚える。


 俺は意外と、この小学生という身分を楽しんでいるのかもしれない。

 楽しんでいていいのか、という気持ちも僅かにあるが。



 いつも通り下車して運転手の方に行ってきますと言ってから校舎に向かって歩み出す。


「緑園寺様、ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 名前も知らない女生徒から挨拶される。この「ごきげんよう」にも慣れた物だ。

 微笑みを湛えれば麗しい令嬢が完成する。気がしている。前みたいに誰も逃げ出していないので多分間違っていないはずだ。


 あの時の俺の笑顔は、相当気持ち悪かったのだろう。あの時の子には申し訳ないことをした。ただあの子もあの子で、逃げ出すのは失礼じゃない?

 なんて思っていたら、あの時の子が挨拶してきた。

「緑園寺様、ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 今回は微笑み令嬢顔で挨拶できた。相手も逃げ出さない。

 と思って相手の顔を見るとどこか不満げだった。


 なんで?



 ◆ ◆ ◆



 自分の席に着き、カバンから教科書類を取り出す。


 結局挨拶の正解もよくわからなくなってきた。

 そもそも、俺のエリカさんのフリで正解しているのはどこなのだろうか、と考えてもそれすらもわからない。

 正解がないことに答えを出そうとするのはとても難儀なことだ。頭が重くなってくる。考えなければいいのだが、そうもいかない。

 本当に難儀な状況だ。


 なんて考えているとちょこちょこと寄ってくる人影があった。

「緑園寺様、昨日、ありがとうございました! これ、お返しです!」

 早乙女さんだ。

 昨日のお返し、というのはジャージのことだろう。

「いえいえ、気にしなくて大丈夫ですよ」

「あのね、お母様に話したら、洗濯して返さないとダメだよって……」

「ああ、全然。気にしないでください」

「だから、お返し、です」


 早乙女さんはぐいっとお菓子を押し付けてきた。綾小路さんと続いて二日連続でお菓子をいただいてしまった。

 箱にはシャレオツな筆記体が書かれているがもちろん読めない。商品名なのか店の名前なのかすらわからない。

「ありがとうございます」

「それね、すっごく美味しいフィナンシェなの!」

 フィナンシェってなんだ。

「そうなんですね。早乙女さんも好きなんですか?」

「うん! ママも好きなの!」

 じゃあ、と思って包装を丁寧に解き、早乙女さんの目の前で箱を開ける。

「一個食べますか?」

「いいの?」

「どうぞどうぞ」

「えー! うれしい!」

 えへへ、と満面の笑みがこちらに向けられる。笑うとほにゃっとなるのがくそかわいい。これが見たかった。早乙女さんは餌付け”される”才能がある。将来は厄介な女になるかもしれない。エリカ様、あなたのライバルになるかもしれませんよ。あ、ライバルは杏でしたね。しかも負け確定でしたね。ごめんなさい。


 早乙女さんは美味しそうに食べている。一口が小さい。かわいい。


 ふと、周囲が静かに感じた。あたりを見渡すと、視線が集まっている。

 クラス中の目線が、こっちに集まっていた。

 なぜ、どうして、と混乱したが、すぐに自分が大事なことを忘れていたことを思い出した。



 ここ、小学校だった。



 朝っぱらから早速やらかした。

 普段の感覚で、子どもにお菓子をあげる感覚でやっちまったけど、教室でお菓子食うって普通ダメだよな。マズイぞ。

 あっ、みんなめっっっちゃこっち見てる……

 あわわ、マズイぞ。早乙女さん……はまだ食ってる! かわいいけど使い物にならない。

 どうしよう。これ、マズイ、エリカさんが先生に怒られる!

 やっべー、どうしよう……


 そう思いながら、助けを求めて周囲をキョロキョロと見回すと、舞浜と目が合った。

 すると、なにかが伝わったのか舞浜は口を開いた。



「うまそうだな」

 お前も食いたいんかい。



 いや待て……これは、共犯者を増やせるのでは?

「早乙女さん、舞浜様にも一つあげてもいいですよね?」

「うん!」

 早乙女さんは変わらずすっごいニコニコしている。かわいい。だが今は置いておこう。舞浜にも一つおすそ分けだ。

 舞浜は俺の狙いにも気が付かず、ぱくりと一口、フィナンシャルだかってお菓子を食べた。


 馬鹿め、これでお前も同罪だ! 一緒に怒られようぜ! と心の中でほくそ笑んでいると舞浜は無表情でお菓子にもぐついている。

 こうやってお菓子を食べている姿を見ると、コイツも普通の小学生に見える。小学生なんだが。


「お茶がほしいな」

 うるせーぞ。

「それ、あとでダリアで食べよう」

 なんでお前が決めてんだよ。

「それだと早乙女さんが一緒に食べられないですよ」

「緑園寺が貰ったものだろ?」

「それはそうですけど……」

「だから気にするな」

「いや待ってください。なんで舞浜様が一緒に食べることになっているんですか?」

「は?」

「えっ?」


「俺が食いたいからだが?」

 コイツ、暴君か?


 もう構っていられないので視線を逸して早乙女さんの方を見てみると、満足そうな顔を浮かべていた。

 少し口元にお菓子のカスをつけるという、満点の子どもムーブをかましている。


 自分のハンカチを取り出し、口元を拭いてあげる。

「わぁ……」

 なんか感動している。なんかデジャブだ。

 えへへと恥ずかしそうな笑いを作っている早乙女さん。それを見て、俺も釣られて笑顔になってしまう。かわいいヤツめ。

「そろそろ席に戻りましょうか」

「はい! ありがとうございました!」

 ぺこりと頭を下げて自席に戻っていく早乙女さん。

 俺は周囲をちらりと見渡す。何人かはサッと視線を逸らす。やはりまだ見られていた。



 やってしまった。俺は今、反省している。

 なんとか先生が入ってくる前に片付けられたが、教室でお菓子を食ったことを、誰かがチクるかもしれない。そうなると実際に食ったのは早乙女さんなので、早乙女さんが怒られるかもしれない。食わせたのは俺なのに。

 ただ、そうならないように、舞浜も巻き込んだ。これで誰かがチクったら舞浜にも被害が及ぶ。

 初日の綾小路さんと俺の問題を解決したときの、舞浜さん、さすがです! みたいな雰囲気からして、舞浜は嫌われていない。

 チクったらその舞浜が巻き込まれる。クラスの連中に釘を刺せる。


 ハラハラしながらHRを過ごしたが、俺の目論見がうまく行ったのか誰かがチクるようなことはなかった。ありがとうクラスのみんな。俺の気持ちが伝わったみたいで一安心だ。



 ◆ ◆ ◆



 一時間目の授業が始まった。いつも通り思索に耽る。


 とりあえず、教室でお菓子を食べた件は許されたみたいでほっと胸をなでおろす。

 今回のは完全に俺のミスだ。あまりにも浅慮で軽はずみな行動だった。ここが小学校で、自分が小学生であることを簡単に忘れてしまう。

 ……もし目の前に酒があったら自然と飲み始めそうで怖い。そうなれば一発でアウトだ。冗談では済まないかもしれない。

 タバコは禁煙に成功したので大丈夫だが、もし勧められたら「禁煙したので……」とか言ってしまいそうで怖い。

 ……いや、そもそもエリカさんにタバコ勧めてくるヤツの方がおかしいからどうにでもなるか。


 とにかく、自分自身が小学生で、女の子であることを、再認識しないとならない。

 いずれ取り返しのつかないミスをするだろう。気を付けなければ。


 しかし早乙女さん、俺みたいなヤツにも結構懐いている感じがする。

 あんな感じで誰にでも懐いていたら、公園とかで変なおじさんに「おいしいお菓子あるよ」と言われたらホイホイついていきそうで心配だ。

 ……この学校に入学しているのだし、お金持ちだろうからそんな心配はしなくていいのか。



 ふぅ、と小さくため息を一つ吐きながら前の席の女生徒の背中を眺める。

 前の席の子、横見瀬さんにはビビられている。さらに綾小路さんにもビビられている。そして今朝だけではなく、ずっとクラスメイトからも視線を感じる。

 このビビられと視線の理由は、正確にはわからない。断片的な情報からなんとなくエリカさんのいじめなのでは、と思っている。

 決めつけるには早計だ。なんせ情報が少なすぎる。


 この「ビビられ問題」の正体を掴まない限り、俺はクラスメイトの視線をいちいち気にしなければならない。


 選択肢は二つ。一つは「ビビられることを気にしない」こと。もうなにがあっても気にしない。四月のことはなかったことにする。俺は知らない。仕方がないこととして受け入れることだ。

 二つ目は「この問題の正体を暴いて解決する」根本的な治療だ。問題を知れば解決できるかもしれないし、できなかったとしても対応可能かもしれない。この「ビビられ問題」の何よりも危険なのは、俺が「知らないこと」だ。だから今は下手に動けないでいる。


 前者は簡単だ。特に何もしない。日和見。

 今後の憂いを断つためにも後者を選ぶべきなのは自明の理。


 だが、一つ思っていることもある。

 それは「このビビられ問題を”俺が”解決すべきなのか」ということだ。


 俺はあくまで、憑依してエリカさんを演じているだけだ。

 今の状況が、本来のエリカさんが招いた事態であるならば、俺が勝手に手を加えるのはただのお節介ではないだろうか、と。

 俺には、エリカさんの人生を奪っている”今”を補填する義務はあるかもしれないが、より良くする義務はないと思っている。だから、これ以上なにかをするのは、果たして必要なことなのだろうか、と。


 さらに言えば「俺が問題を解決していいものなのか」ということもある。

 人生において、自分の問題を解決することは成長につながる。自分自身の問題に気がついて、反省する。エリカさんからその機会を、俺が奪ってしまうのではないだろうか。


 ……俺お得意の考え過ぎが発動している。

 そんなことどうでもいいだろ、いつ戻ってくるかもわからないんだから好きにやれよ、と心の声も聞こえるが、思考がその邪魔をする。


 一度、考えることをやめて窓の方へと視線を向ける。

 広大な芝生の上に樹木が立ち並び、涼し気に木の葉を揺らしている。校門側は駐車場になっているので、今見えている景色がその裏側なのだろう。都会のど真ん中だというのに、喧騒の外にあるかのような静けさ。

 


 今の俺がやるべきことの境界線はとても曖昧だ。

 そもそも、全部が俺の善意で成り立っている。

 どこにも義務がない。

 

 なんでこんなに頑張ってるんだろう、とか、もう適当にやっても良くない? とか。

 そういう考えも浮かんでくる。


 人は弱い。義務も責任も無ければ、楽な方、楽な方へと流れるようにできている。

 だから、いつか俺はこの心に負けるだろう。

 

 負けたとき、俺は自分を許せるのだろうか。

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