10.登校
車に乗り込む。運転手は知らない人だ。
「行ってらっしゃいませ、エリカお嬢様」
子リスさんと四十代ぐらいの使用人の方に見送られる。
どうしていいかわからんかったので手を振っておいた。
乗り心地の良い車に揺られる間、考え事の時間だ。持ってきた手帳を開く。
朝のこと、兄のこと、その名前、母の名前。忘れないようにメモしていく。
しかしいくら乗り心地が良い車内だと言っても多少揺れる。書きづらい。字がブレる。
字といえば、エリカさんはどんな字を書いていただろうか。
今書いているのは俺の割りと汚くて癖のある字だ。
急いで国語のノートを開く。
そのノートには美しい楷書体が整然としていた。
めちゃくちゃキレイだ。小学一年生とは思えない。習字やってるとはいえ、ここまでだったか。
そういえば小学校ってノート提出みたいなこともあったよな?
マズイな。この楷書体のお手本みたいな字が「読めればいいや」という匂いがプンプンする小汚い字に変わっていたらどうだ?
先生、腰抜かすのでは?
うーん、マズイ。学校に行くまでに少し字の練習をしよう。
少しでも綺麗に書けるよう、字を寄せよう。
そう思ってペンを走らせると、俺の予想に反して意外とすぐに真似できてしまった。
不思議な感覚だが、お手本としているエリカさんの字の通り、こうやって書こう、と腕を動かすとほとんど思った通りの字が書けた。
完全に自分の字じゃない。こんな美しい字を人生で書いたことはない。でも、書けた。車の揺れで完璧ではないが、筆跡は確かにこの子のものだった。
恐らくだが、体が字の書き方を覚えているのだろう。
この字の書き方を、体に叩き込まれている。六歳の体に。
それは相当な努力だっただろうに。
……もしかすると、この子はとんでもない才女だったのかもしれない。
そういえば勉強もできるって話だ。
本当に、運だけはなかったみたいだが……
揺れる車内。少しセンチな気分になる。
事故にあったのも、この車と同型の車種だ。多分、ここに座っていたのだろう。
外の景色に目をやると学校らしきものの姿が見えた。
昔見た、北海道の国立大学みたいな敷地の広さだ。いや、それ以上かもしれない。学内に牧場でもあるのだろうか。
これ全部が小学校なのだろうか。
◆ ◆ ◆
車が止まると運転手の方が降りた。
なになに? と思っていると後部座席のドアが開いた。
なるほど、ドアの開閉までやってくれるのか。まさにお嬢様って感じで感動する。
カバンを持ち、素直に降りる。
「ありがとうございます」
そう一言お礼を言うと、運転手は驚いた表情をしていた。
嘘だろ、これ言わないのが正解だったか?
「いえ、とんでもございません。お嬢様、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
もうここまで来たら笑顔で言っておこう。嫌な思いはしないだろうし。
ちらっと駐車場を見ると、そこにはズラリと高級車が並んでいる。それもリムジンタイプのものばかり。
予想通り「私」の家と同レベルの子どもたちが通うような小学校なのだろう。
まったく未知の世界だ。
だが俺も伊達に二十七年間生きてきていない。小学生だって経験はある。男だったが。
培ってきた知識と経験はある。今こそ、二十七年間のすべてを活かす”時”だ。”時”が来たのだ。
フッ……エリカさん、安心して見ていてくれ。俺は完璧な小学生、完璧なエリカさんを演じて見せよう。
てか見てるなら早く帰ってきてくれよ。
早速、小学生っぽい子たちが歩いていく方向がある。なんとなく人の流れる波が見えた。
よく見ると、みんな「私」と同じような格好をしている。これ制服だったのか。しかし今はどうでもいい。この波に乗ればいいんだろう。
ここは勝手知ったる母校。そのつもりで堂々と行く。
さぁ行くぞ!!!
俺は自信に満ち溢れた一歩を踏み出した。
「緑園寺様、ごきげんよう」
いつの間にか隣にいた同級生っぽい女の子が言ってきた。
ご、
ごきげんよう……???
コ、コイツ、ふざけてるのか……?
いや、違う。ふざけてない。彼女は真面目に俺に「ごきげんよう」している!
これがここでのスタンダードってことか!?
二人の間にしばしの沈黙。周囲からはどう見られているのだろうか。
相手の様子は……わからない。おそらく不審がっている。
意を決する。
「ご、ごきげんよう」
俺の人生初ごきげんようだ。
俺の全力ハニカミスマイルもセットだ。
相手は固まった。ピシリと音が聞こえたような気がする。
マズい、キモ過ぎたか? いやそんなことない。この顔は控えめにいって美人だ。
あ、俺の笑い方が悪かったのかもしれない。
そうだ、中身が俺なんだ。忘れてた。笑顔にキショさがにじみ出たかもしれない。
あっ、走って逃げられた。
終わったかもしれん。
ごめん、エリカさん。
俺、君の小学生時代を真っ暗の暗黒に染め上げてしまうかもしれない。
……
少しばかり呆然としているとなにか、周囲の視線を感じる。
さっきのを見られたのかもしれない。
マズいぞ、変に目立つわけにはいかない。
と、とりあえず校舎に行こう。流れに乗るんだ。
自然に、そう、自然に。
そう、自然にいくんだ。顔に出すなよ、俺。
目の前にある校舎が大きく感じる。
それは体が小さいせいか、精神的な問題なのかはわからない。
一呼吸を入れて中に入る。
広い下駄箱だ。
いや、もう下駄箱って言葉を使うのもおこがましいぐらい綺麗だ。お下駄箱だ。
見惚れてしまっていた。
おっと、こんなことしている場合じゃない。靴を履き替えよう。
キョロキョロと当たりを見渡して考える。
「私」のお下駄箱、どこですの?
「緑園寺、なにをしているんだ?」
お下駄箱の前で立ちすくんでいたら声をかけられた。
誰だ緑園寺って、と今の自分の名前を忘れかけながら振り返ると、そこにはまだ幼さが残るものの美形の男児がいた。
彫りの深い、目鼻立ちのくっきりした顔立ち。
同性の自分ですらハッとさせられるものがある。
それは顔だけじゃない。全身から醸し出される、何とも言えないオーラに気付かされたからだ。
人を引き付けるようで、寄せ付けない。高貴な匂いの中に滾るような熱さすら感じる。
それでいて静かなその目は怜悧。
将来はきっと、とんでもない男になるだろう。
そんな予感を感じさせる男の子だった。
当然固まってしまった。
頭の中は複数の選択肢が上がったが、すべて、彼の容貌の前では白紙に帰した。
驚愕。
小学生に、オーラで気圧された。そんな感覚。
「おい、どうした?」
ハッとした。
「あっ、久しぶりの学校で、私の靴がどこにあるか忘れてしまって……」
「こっちだ」
案内してくれるらしい。素直についていく。
同じクラスなのだろうか。この容姿に反して意外と親切なんだな。
「ここじゃないか?」
そのボックスには番号しか書いていなかった。なぜ彼は「私」の靴箱がわかるのだろうか。
とりあえず開けてみる。白い運動靴。安っぽい上履きなんかじゃなかった。ちゃんとした靴だ。
これが本当に自分のなのかがわからない。名前も書かれていない。今は彼を信じるしかない。
「あ、ありがとうございます」
「頭、大丈夫なのか?」
唐突にバカされた。
なんだコイツ、いいヤツだと思ったけど失礼だな。
まぁ確かに自分の靴箱すら忘れてたらそう思われるのかもしれないが。
エリカさんの名誉のためにも言い返したほうがいいのだろうか。
「ちょっと自分の靴箱忘れたぐらいで、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」
「? 事故のことだが」
アッ
普通に恥ずかしい。
「あっ、じ、事故なら大丈夫です。学校にも来れましたし」
「そうか」
名も知らぬ彼は上履きに履き替え、先に行ってしまった。
なんだったんだあのとんでもないイケメンは……。と思っていると後ろから黄色い歓声が各所で上がっていた。
「マイハマ様、今日も麗しいですわぁ」
キャーキャーと姦しい音が聞こえてくる。
何があったんだ? と思って視線の先を見ると先程の美男子だった。
なるほど、さっきのは「マイハマ」くんと言うのか。さしずめ学校のヒーローってところか。
小学生にしてあれだけのオーラ。さぞおモテになられるでしょう。おいくつなんでしょうかしら。
……? 「私」と同じ並びの靴箱から靴を出していたし、「私」と一緒のクラスなのか?
だとしたら一年生!? 六歳!!!???
一回りも二回りも年下のガキに俺は気圧されたのか……? 俺、二十七歳だぞ……?
絶句しながら靴を履き替える。
正直、小学生なんて余裕だろって思っていた。心のどこかで、余裕があった。
なにせ勉強の内容はすでに理解している。勉強で追いつけないということはない。
さらに、相手は小学生。お金持ちと言っても”所詮は”小学生だ。俺の二十七年間を持ってすれば並大抵のことは負けないだろう。ガキを蹴散らすだけ。
エリカさんが才女であっても、そのフリをするのも簡単だ。そう思っていた。
だが、最初に挨拶してきた女の子には逃げられ、二人目の男の子はとんでもない容貌で人としての敗北を感じた。
特に二人目。あんなのがゴロゴロいるなら……俺は……
ハッキリ言おう。舐めていた。
これは認識を改めないといけないかもしれない……
俺は今から、魔境に足を踏み入れる。そういう覚悟を持たねば。
「……に‥‥、緑園寺様、***」
黄色い歓声を上げていた女の子たちの中から「私」の名前も混じって聞こえて来た。
なにか噂されているのかもしれない。
しかし、今の俺にはどうすることもできない。
さて、次はどうする。どうすれば自然だ?
小学生なら次はどうする?
そうだ、教室に行くんだ。教室に行こう。
……
…………
「私」の教室、どこですの?
!!!!!
さっきのイケメン!
マイハマくんの後をひっそりついていこう!
まだここから見える。階段の一段目に足をかけたところ。急いで彼の後を追った。
後ろからはまたしても黄色い声が聞こえてくる。
耳に突き刺さるような甲高く不快な音に少し苛立ちを覚える。毎日これならマイハマくんも大変そうだ。
ひっそりついていこう。なんて思ったら階段の踊り場でマイハマくんと男の子が話始めてしまった。
男の子はメガネを掛けた、真面目そうな見た目だ。ただ、その見た目に反してわんぱくそうな雰囲気を感じる。
しかしタイミングが悪い。階段の途中で足を止めるわけにはいかない。
自然と体が牛歩戦術を取り始めたとき、不意に話しかけられる。
「緑園寺さん、おはよう」
マイハマくんと話しているメガネ男子が笑顔で挨拶してくれた。
「お、おはようございます!」
そう返すと、ん? って顔をされた。なぜ?
マイハマくんすら、変な顔をしている。待て、なんか嫌な感じがする。
何かを間違えたみたいだ。
「ミツル、行くぞ」
「ああ、うん」
マイハマくんがミツル、と呼んだメガネくんを連れていく。しめた。
ひっそり後をついていこう。
と、思ったけどすぐ近くの教室に二人が入っていった。
意外と近かった。
俺もその教室の中に入っていく。
室内は白を基調とした、美しい教室だった。
間違っても学級目標みたいな誰も達成する気のない空虚な言葉が飾られたりしていない。
壁面には掲示物やポスターの類もない。ただ、綺麗。
そこにいる子どもたちもどこか風光明媚な感じすらする。いや、実際、見目麗しい子が多かった。髪色もひと目で染めていないとわかるような茶色や金色の子もいる。髪は黒でも明らかに外国の血が入っている容姿の子もいる。
ざっと見渡しても、バカみたいに大声を出して走り回ったり、騒ぎ立てるような輩はいない。席に座りながら近くの人とおしゃべりしたり、仲のいいグループが固まっていたり、その程度。
俺の知ってる小学校の朝の光景ではない。
卑しさに満ちたガキなんてここにはいない。
別の世界。
まさに、俺の知らない小学校だった。
さて
「私」の席、どこですの?
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