子リスさん
五月。あのお人形みたいに美しい私の主人が事故にあった。その報告を聞いて呆然とした。
お嬢様と出会い、この屋敷で働くようになって二ヶ月。人生で始めての就職先である緑園寺家は待遇も良く、優しい上司にも恵まれ、やりがいも感じていた。
そんな家が特大の不幸に見舞われた。
と、思っていたら続報が入り、お嬢様はほぼ無傷だったらしい。
私は胸をなでおろした。
その翌日、お嬢様は屋敷に帰ってきた。
迎えは要らない、とのことだったので部屋の掃除をしながら帰りを待っていた。
緑園寺家の別邸であるこの建物は広い。そして上品だ。
広々とした空間、壁には意匠を凝らした装飾、傷一つ無いフローリング、木材と大理石を組み合わせたモダンなデザイン。
初めて足を踏み入れたときは、自分が住んでいる世界と別なのだ、と実感させられた。
実際、働き始めて本当に別世界だということに気が付くのだが。
午前の終わりごろ、偶然屋敷の中でお嬢様を見かけた。
すぐにお声がけしようと思ったが、足が止まった。
お嬢様の挙動が、まるで数ヶ月前の自分を見ているようだったからだ。
周囲をキョロキョロ、あっちを見たりこっちを見たり。まるでここがどこかわかっていないかのように歩いている。
病院という、家とは別の空間に寝泊まりしたせいで家が恋しくなったのだろうか。
などと思っていると自室に入っていった。
結局、その日は話しかけることができなかった。
◆ ◆ ◆
翌日の早朝、使用人の打ち合わせで今日からお嬢様が復学する、とのことだったので、いつも通り私がお嬢様のモーニングコールを担当することになった。
あんな大きな事故だったのに、もう学校に行くのかとも思ったが、無傷に近かったようだし納得した。
いつも通り、ティーポットを載せたキャスター付きワゴンを押しながらお嬢様の部屋へと向かう。
普段、余計なことは話さないように言われているが、こういうときは無事でよかった、ぐらい言った方がいいのだろうか。
そんなことを考えながら、いつも通りにノックをニ回。返事はないが、同時に室内から目覚ましの音が鳴り響いた。
それは珍しいことだった。自分がやってきてからニヶ月、お嬢様は一度も目覚ましを使っていなかったからだ。
寝起きが悪いお嬢様のことだし、この目覚まし程度では起きることはないだろう。そうたかをくくってドアを開き、定位置でキャスター付きワゴンの足を固定する。
いつもの通り、寝ているお嬢様へと近づいていくと、もぞもぞと動いてご自分で目覚ましを止めた。
そして次の瞬間、上半身を跳ね起こした。
私には二つの衝撃が頭に飛び込んできた。
一つ目は、一人でちゃんと起きたことだ。
今までは声をかけて、体を揺すってやっと目を開ける。ここまでならまだいいが、お嬢様は寝起きが悪いのかうとうととした時間が長い。
結局、覚醒するまで五分ほど時間がかかる。普段、その間の二度寝を防止するのが私の役割でもある。
が、今日は一人で起きて、一人で覚醒までしていた。しかも半ば強引に。こんなスムーズに起きることなんて今までなかった。
まるで別人だ。
もうひとつは、急に上体を起こしたのでふつうにびっくりした。
だが、衝撃を受けている場合ではない。私にとっては仕事の時間だ。
「お、おはようございます、お嬢様」
なんとか取り繕った言葉をひねり出す。
「本日のモーニングティーはいかがなさいますか?」
エリカお嬢様はぼんやりとした目でこちらを見ている。が、普段と違って何も言わない。
言わないが、答えはわかっている。わかっているが、仕事として答えが返ってくるまで動くことはできない。
緑園寺家のしきたりとしてこのアーリー・モーニングティーはある。
奥方様は面倒くさいからいらない、と言っているが、古くからのしきたりはなかなか辞めることができないらしい。
お嬢様は十二歳まで。すなわち初等部の間は毎朝の習慣とする、ということで決まっている。
ということで、お嬢様の専属メイドとなった私の仕事となった。
だが、私がここでお茶を提供したのは一度だけ。
お嬢様の担当となった最初の朝、ローズマリーを淹れたのが最後。
あれ以来お嬢様は、いらない、と言ってなにも注文しない。
わかっている。
私の淹れたモノが美味しくなかったのだ。
当たり前だ。今まで使ったこともない器具を使って、淹れている自分すらたいしてわかっていない味の液体を作っているのだから。プロの、ちゃんとした味を知っているお嬢様が満足できるわけない。
だから私は、陰ながら努力した。
毎日、毎日、お茶の淹れ方を練習した。
紅茶やハーブティー、緑茶の種類、生息地、茶葉ごとの淹れる温度の違い……たくさん勉強した。もしかしたら一生、淹れるタイミングは無いのかもしれないけど。
それでも、お嬢様の気まぐれで淹れることがあるかもしれない。そのとき、またがっかりされたくなかった。
ただ、今日はその時じゃないだろう。
「オススメはどれですか?」
私はいつも通り、かしこまりました、と言って一礼したあと、部屋を退出する。そのつもりだった。
だが、今日のお嬢様は、なぜかオススメを聞いてきた。
「へっ!? あ、あっ、ロ、ローズマリーとか、いかがでしょうか!」
あまりのことに驚きすぎて、とっさに上ずった声が出てしまった。
「じゃあそれで」
まさかの注文。練習しておいてよかった。
ローズマリーは練習した。毎日のように
代わりに梨花さんはローズマリーが嫌いになりかけてた。
できるだけ、落ち着いて手順をなぞる。が、あまりの出来事過ぎて心臓バクバクだ。
私は昔から、突然の出来事に対して弱い。急にボールが飛んできたらキャッチできない。友達からもよくどんくさいと言われた。
物事もそうで、想定していないことが起きると動揺してしまう。
だが、今日は何度も練習したローズマリーだ。自信はある。
なんとか練習通り淹れることができたローズマリーをお嬢様に提供できた。
ドキドキしながら見守る。水面をじっと見たあと、一口だけ口を付ける。
嚥下する姿を見て、私はどうしてもお嬢様の感想が聞きたくなってしまった。
「いっ、いかがでしょうか!!」
自分でも驚くほど前のめりで聞いてしまった。
「お、美味しいです」
お嬢様を驚かせてしまった。
が、それよりも美味しかった、という言葉。
それがなによりも嬉しかった。
もう何も考えられなかった。
「よかったです! 失礼します!」
考えられなかったので、逃げるように退室してしまった。
かチャリとドアを閉め、壁に背中を預けて。
「っっ~~~……はぁ~~…………」
めちゃくちゃ緊張した。そしてめちゃくちゃ嬉しかった。
ニヤついてしまう顔を手で抑えながら、心の中は小躍りしていた。
さ、戻ろう。
そう思ってワゴンの上にあるタオルウォーマーを見て、はたと気が付いた。
そういえば、これ開けた記憶が無い。
ぱかっと開いてみると、中にはスチームタオルが出来上がっていた。
やってしまった。
上気した顔は一瞬で青ざめていく。
終わりだ。
クビかもしれない。
どうしよう、とあたふたしていると、さっき閉めたばかりのドアが開いた。
そこには、目線の高さにあるドアノブを回し終えたお嬢様。
また驚いた。普段、奥方様が迎えに来るまでは部屋から出てこない。
もしかして、タオルを渡さなかった私に言いたいことがあったのかもしれない。
そう思うと反射的に体が動いた。
「あ、あのっ! 先にこちらでした!! 申し訳ありません!」
動揺とあまりの緊張に、大げさなほどに体を折り曲げて頭を下げてしまった。
だが反対にお嬢様は冷静だった。
「ありがとうございます」
そう言って、タオルを受け取った。
私は心底ほっとした。
顔を上げて、ちらとお嬢様の顔色を見ると、様子がおかしかった。
これがなんなのか、わかっていないような、不安そうな顔をしていたからだ。
「も、申し訳ありません! 私が拭かせていただきます!」
なぜ謝ったのか自分でもわからないし、なんで自分が拭こうという判断になったのか、今となっては全然わからない。
わからないが、そうしないといけない気がした。
そこからの記憶は無い。
気が付くと、使用人控室に私は居た。
そして隣には梨花さんもいた。
「その……そういうこともあるよ」
背中を撫でられながら、あんまり上手じゃない慰めを受けていた。
これが私の、人生で一番失敗した日だ。
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