一章
17.二度目の朝
「エリカさん、起きてください。朝ですわよ」
寝ぼけ眼で声の元を見上げるとそこには朝日に照らされた美女がいた。
少し乱れた髪の毛と眠そうな眼、少し開いた胸元は色香を匂わせた。
わずかに笑みを覗かせる口元と頭を優しく撫でる手に心地よさを覚え、思わずもう一度目を閉じる。二度寝の体勢だ。
「あら、悪い子ですわね」
悪い子でいいのでこのまま二度寝させてください。
とは言えないのでしぶしぶ起きる。
「おはようございます」
上体を起こしながら朝の挨拶を済ませ、「私」の母の顔を見ていると、ふと昨日のことを思い出した。
何とも言えない、気恥ずかしさが湧いてくる。
「おはようございます。奥様、エリカお嬢様」
ベッドの脇には三十代ぐらいの女性の使用人の方がいた。
昨日、何度か目にしたが特に会話することはなかった。
母専属のメイドってところだろうか。
あつあつタオルを一度広げて熱を飛ばして、手渡してくれた。
うーん、できる人だ。
適温のタオルで顔を拭けた。
しかしなぜか母の分がない。このあつあつタオル、俺だけなの?
「お嬢様、モーニングティーはいかがなさいますか?」
出たよ、このシステム。マジでなんでもいいんだけど。
「お母様は普段なにを飲むんですか?」
「わたくしは普段いただきませんわ」
飲まないんかい!!
えっ? じゃあ俺もいらないけど……
「でもせっかくだからローズマリーをいただきますわ」
「じゃ、じゃあ一緒のヤツで」
なんなのこのシステム、「私」だけの特別システムなの?
ローズマリーをいただく。
うーん、うまい。多分。ブラックコーヒーが飲みたい。
でも小学一年生がコーヒー飲みたいって言うかな。
ミルクとか砂糖を入れていれば飲んでいても不自然じゃないかもしれないが、単純にミルクとか砂糖が入っているコーヒーは苦手だ。コーヒーは苦味とコクが好きで飲んでいたから。できればブラックで飲みたい。というかブラックじゃないならコーヒーじゃなくていい。
なんてどうでもいいことを考えながらローズマリーをいただいた。
「エリカさん、一緒にお顔を洗いにいきましょうか」
断る理由もないのでついて行った。
大きな洗面所、いやパウダールームで顔を洗う。ちなみに俺は台に乗っている。こういうのを使うと自分が子どもサイズなんだなと改めて実感する。
目の前の鏡には、髪を髪留めとヘアバンドでまとめている、幼い女の子だ。隣の女性に目元がよく似ている。見比べれば親子だとわかる。
冷水で顔を洗いながら昨日の「私」の母の言葉を思い出す。
「エリカさん、世間体なんて気にしなくて結構です」
「取り繕うのがわたくしたち親の仕事ですわ」
これは俺ではなく「私」に向けた言葉だ。
ただ、素敵な母親だな、と思った。
ちらりと隣の女性を覗き見ると、前髪をヘアバンドでまとめて、もこもこの泡で顔面を包み込んでいる。
「どうしましたか?」
顔全体が真っ白で見えていないのに、なぜか視線を気取られた。ニュータイプか?
「い、いえ、なんでもないです!」
「なんです? 言いたいことがあったら言ってもいいのですわよ」
「お、お母様は、い、いつも綺麗だなーって」
ヘヘッとキショ笑いもセットでおべんちゃらを振るう。
「まぁ! エリカさんもいつも可愛いですわよ」
顔面泡だらけなので絶対俺のことなんて見えてない。
でも、俺にもこの人の優しい微笑みが見える。
そういう顔をするんだろうな、と容易に想像できた。
一度自分の部屋に戻ると、子リスさんと四十代ぐらいの使用人の方が待っていた。
着替えの時間だ。
服は昨日と同じ。紺色のスカートに白いシャツ、その上から紺色のプルオーバーカーディガン。そしてカーディガンの左胸にはデカい花っぽい刺繍付き。
着替えが終わると使用人の二人は静かに出ていった。
仕事とはいえ、俺の着替えを手伝わせることに申し訳なさを覚える。着替え方もわかってきたし、もうそろそろ一人で着替えたい。
さて、少しだけ時間ができたので手帳を開く。
昨日あったことを全然書けていないので、思い出しながら俺の汚い字で筆を走らせる。
昨日考えたことを一度整理しよう。
基本的な行動の指針は変わらない。今まで通り、エリカさんのフリをして生活しながらエリカさんの魂を見つけて、元に戻す。
それに加えて大事なことが一つ。将来的に起きるであろう、舞浜との婚約、そして婚約破棄からの没落。これを回避する。
そのために、舞浜とヒロインである杏。この二人との接触を極力減らす。
ヒロインは簡単だ。アニメ通りなら高校生からの入学になる。つまり今は学校に在籍していないので高校生になってから避けることを考えればいい。
問題は舞浜だ。
現時点で婚約は成立していないので、その点は問題ない。だがこれから何があるのか全くの未知だ。
そもそも、アニメでもどういう理由で婚約が成立していたのかもわからない。
家のつながりのための婚姻なら回避は難しいのかもしれないが……母の話しぶりから考えると「私」が断れば断れそうだ。
だがこれから何が起きるのかわからない。仲良くなりすぎるのも良くないのかもしれないので舞浜もできるだけ避ける方向で行こうと思っている。
ただ、学校では隣の席だし、昨日の様子では相手からも話しかけてくる。
嫌いでもないし、むしろ好感を持ってるぐらいなので大変申し訳ないが……不自然に見えない程度に接触の機会を減らそう。
こちらからは話しかけない、無駄な接触はしない、親交を深めない。話しかけられたら答える。これで行こう。
正直、今後の学校生活で困ったらコイツに頼ろうかな、って気持ちでいた矢先にこれだ。
次に困ったことがあったら、前の席の子を頼ってみようか。女の子の友達も居たほうが「私」的に自然だろうしな。
なんてまとめていると朝食に呼び出された。
「いただきます」
昨日、パパ上はダンディ魚になっていたが今朝は元気そうだった。ニコニコしている。多分ママ上からなにか聞いたのだろう。
ただ、本当のエリカさんは舞浜のことが好きだと思うからぬか喜びなんだが。それは言えない。
「エリカ、今日は私が髪の毛をセットしてあげよう」
そういえばそんなこと昨日言っていたな。
「どんな髪型がいい?」
うーん、どうでもいい。というか髪型を知らない。ポニーテールぐらいしか思い出せない。
「編み込みでもなんでもやってあげよう」
自信満々ダンディだ。てか娘の髪を結えるの凄いな。最近のお父さんはできて当たり前なのか?
「エリカさん、今日は体育がありませんでしたか?」
「あります」
「なら、体操着に着替えた後、髪を縛ったほうがいいですわね」
ママ上の言葉に愕然とするダンディ。そんなに髪をセットするのが楽しみだったのだろうか。なんか悪い気がする。
「あー……着替える前からできるのがあるなら、やってもらいたいです」
「なら後ろで一つ結びがいいのではありません?」
そう言いながらダンディの方を向くママ上。
「簡単だな……」
不満げダンディ。凝ったやつがやりたいのだろうか。運が悪いダンディだ。
エリカさんの運が悪いのも、このダンディ譲りだったりするのだろうか。
朝食後、ダンディはウキウキした様子で髪の毛を縛り始めた。
まずは髪をブラシで梳かしていく。ママ上とも違う、少し強めに感じるが痛くはない。力加減に気を使っているのがわかる。このダンディ、手慣れている。
ある程度梳かし終わったらサイドに流れている髪の毛もすべてまとめて後ろに持っていかれた。多分これを縛るんだろう。
と思っていたら後ろからダンディの唸り声が聞こえる。
なにを悩んでいるのかと思えば、縛る位置を低めか高めかで悩んでいるようだ。
黙って待っていると低めに決めたらしい。
なにかで留められた感じがする。なにかって言っても多分髪留めのゴムなんだろうが、俺は髪を縛ったことがないので自信がない。それになぜか、もう一つ付けられた気がする。
終わりかな、と思っていると次は髪留めをどれにするか悩んでいるようだ。
いや、もうゴムで縛って終わりでよくね? と思ったがダンディはあれでもない、これでもないと真剣だ。このダンディ、凝り性かもしれない。
まあ、俺も凝り性なところがあるのでわかる。せっかくやるんだから、一番良くしたいって思うもんな。それが自分の娘ならなおさらだ。
しばらくするとダンディは大きなリボンが付いたヤツを選んだ。
どうやって付けるんだろう、と思っていたら後ろからパチンと音がした。髪に挟んだのだろうか。てか重たいな。少し重心が後ろに引っ張られる。
「どうだろうか」
パパ上は嬉しそうにしている。わからんけどいいんじゃない?
「体育なのだから、大きい髪飾りは危ないですわ」
ママ上の言葉に愕然とするダンディ。娘のためにここまで頑張ったのに。凄い悩んで髪留めを決めたのに。俺まで悲しくなってきた。
というか髪留め自体が着替えるときに邪魔だからいらないですわ、というママ上の発言により結局、髪はオレンジ色のゴムで留められただけになった。
いいじゃん、これだけで。十分可愛いよ。
「ありがとうございます」
ダンディは不甲斐なさそうにしていた。気にすんなって。
◆ ◆ ◆
登校する車に揺られながら髪の毛を触る。
俺が本当に女の子なら、オシャレにセットしてもらえれば嬉しいんだろうけど、あいにく俺は男なのでまったくなにもわからない。ただ、ダンディが楽しそうだったから良かったな、とは思うが。
エリカさんの体になってからずっと思っていたが、ハッキリ言って長い髪の毛は邪魔だ。
下を向いたら垂れてきて字が書きづらい。いちいち耳にかけたりするのも面倒。湯船に浸かるときも髪をまとめないとならないし、顔を洗うときもまとめないと邪魔になる。
メシを食うときも縛らないと口の中に割り込んでくるときがある。
この数日だけで十分ウザいと感じている。世の中のロングヘアを維持する女性はよくこんなのを我慢できるな、と思ってしまう。
しかも毎日風呂でケアしないといけない。
自分の体なら即切り落としているだろう。
そんなことよりも今日の朝食だ。今日も美味かった。
この体になってから食うメシのすべてがうまい。これは役得だな。こんな七面倒臭いことをやっているんだからメシぐらいは楽しませてくれ。
と言っても、家族とのハラハラドキドキの会話であまり味を楽しんでいる余裕もない。
他愛もない話ではあるが、やはり緊張することには変わりはない。気を抜いて「俺」とか言ってしまえば一瞬で異変に気づかれる。
俺からすれば両親も兄も、まだ知り合って間もないから社会人のクセで私と言えているだけで、これ以上慣れてくるといつかやらかす気がしている。
そう考えると一番気楽なのは学校の給食かもしれない。
……給食が楽しみって、本当に小学生みたいだ。
俺が通っていた小学校とは比べ物にならない給食が出てくるが。
なんだか無性に給食のわかめごはんとたまごスープが食べたくなってきた。
多少のノスタルジーを覚えながら、窓から外を覗くと、大きな敷地と建物。
「私」の学校だ。
さぁ、今日も頑張ろう。
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