16.母

 シミひとつ無い綺麗な天井を呆然と眺めながら、これからどうするべきなのか、と考えようとしてもどうすることもできないことばかりで、思考がぽろぽろと落ちていく。

 取っ掛かりがなく、何をするべきなのか、どうしていいのか、具体的なことが全然まとまらない。

 いや、わかってる。

 俺がやるべきなのは、エリカさんの魂を見つけることだ。

 わかっているが、そのためにどうすればいいのかまったく見当がつかない。


 とりあえず、俺はエリカさんの真似事を続けるしかない。そんな消極的な選択を迫られている。

 とりあえずで成人男性が小学生女児のフリをする、という字面の異常性がどれだけイカれているのやら。考えたくもない。


 そんなとりとめのない、無為な思考を続けていると扉を叩く音が聞こえてきた。

 はい、と返事をするとドアの向こうから顔を出したのはママ上だった。


「エリカさん、体調はいかがですの?」

 やはり心配されている。

「大丈夫です。寝たら治りました」

「一応、お熱を測っておきましょう」

 非接触体温計で熱を測られる。二度か三度ほど、おでこの温度を見て、その数値に安心したようだ。


「それでしたら、お風呂に入りません?」

 そういえばそうだった。エリカさんは母と毎日一緒に入っている。

 でも、髪の洗い方は覚えたし、もう一緒に入る意味は無い。何回も人妻の肌を見るのもパパ上に申し訳ないので、お断りさせてもらう。


「今日は遠慮させてもらいます」

「ええっ! そんな!」

 驚きと絶望の入り混じった顔になった。オーバーじゃないか?

「やはり、まだ体調が優れないのですか?」

「いえ、体調は問題ないです」

「それでは、わたくしのこと、嫌いになってしまいましたの?」

「い、いえ、そういうわけではなくて……」

「わたくし、エリカさんに恋のイロハを教えて差し上げようと思っておりましたのに……」

 グスン、みたいな演技と泣き顔を作っている。

「あー、だ、大丈夫です」

「そうでしたか……それでは、本日は一人で入ることにいたしますわ……」

 本気で悲しそうな顔。「私」の母を、傷つけたかもしれない。

 胸に少しだけ、嫌な痛みが走る。


 俺だって嫌なわけではない。ただ、中身が男の俺が何度も一緒に入るべきじゃないと思っただけだ。

 でも、俺が我慢すれば彼女を傷付けなくて済む。そう思うと、自然と口が開いた。


 「あっ、あの!」

 


 ……ん? あれ?

 この人ドア閉めるの遅いな?



 やられた。これは”待ってください”待ちだ。



「どうしましたの?」

 ママ上は閉まりそうで閉まらない、ドアの隙間から、目を下に向けて悲しげな姿を見せている。ただ、なんとなく、その姿に勝ちを確信したような、そんな雰囲気が見て取れた。


「やっぱり、入ります……」

「まぁ! それでは気が変わる前に行きましょう!」

 ママ上は弾かれたように扉を全開にして、顔の前で手を合わせ、満面の笑みを浮かべている。


 この人、結構したたかだな。



 ◆ ◆ ◆



 大人しく髪を洗われていると、後ろから声が聞こえる。

「エリカさん、光圀さんとのお話、本当に進めなくてよろしいの?」

 コンディショナーらしきものを髪に揉み込みながらママ上は聞いてきた。

 そういえばそんな話してたな。絶対進めないでほしい。一家まるごと破滅する。

「はい、本当に大丈夫です」

「そうですか。気が変わったら言ってください。ヤストさんはあんな顔していましたが、わたくしは応援しておりますからね」

 応援か。元々エリカさんは舞浜のことを好きだったっぽいし。まぁ応援されておくか。


 髪を洗い終え、頭をタオルでまとめてもらい、湯船に浸かる。ウェェ~~~とオッサンじみた声が出そうになるのをグッと抑えた。

 今日のお風呂は昨日よりも少しぬるいので耐えることができた。もっと熱かったら俺は次男なので耐えられなかったかもしれない。


 今回は舞浜と婚約しているかどうかを確認したかっただけなのに、母は喜んで恋を応援し、父は魚になってしまった。

 ちょっとやりすぎてしまっただろうか。もう少し、波風立てない質問で探ってもよかったかもしれない。別に今日聞かなくたって問題なかったんだから、時間をかけて、ちゃんと作戦を練ればよかった。

 本当に、俺は計画性がない。大事なことを思いつきで行動して失敗することが多い。

 わかっているのに、いつまで経っても治らない。不思議なもんだ。


「考え事ですの?」

 いつの間にか隣にママ上だ。

「光圀さんのことでした?」

「違いますよ」

 ママ上はふふっと柔らかい笑みを浮かべている。本当に違うんだが。というか「俺」は別に彼のことを好きでもなんでもない。確かにいいヤツだなとは思っている。しかし将来はゴミカスだ。

 でも「私」は好きなんだろうし、とりあえず否定はしないほうがいいのかな。

「エリカさん」

「はい?」

 ふいに抱き寄せられる。背中に熱を感じる。

 ジャグジーの音よりも、背中を通して聞こえる心音の方が大きく聞こえた。


「エリカさんに、本当に好きな方ができたときは、こっそり教えて下さいまし」

 好きでもないの、バレてたのか……

「な、なぜですか?」

「ヤストさんが泣いてしまいますもの」

「なるほど……」

 確かに。


「エリカさんが、どんな方を好きになったとしても、応援しますわ」

「どんな人?」

「例え、身分が違う方だったとしても」

 身分違いの恋。ドラマチックだが、それは世間体が悪いのではないだろうか。

「エリカさんが本気で、この方と一生を添い遂げたいと、心に決めたのであれば、応援しますわ」

「……ありがとうございます」


「私」の母の腕から離れた。

 どうして、この人はこういう考えなのだろうか。自由恋愛どころか身分違いでも応援する?

 この言い方をわざわざするということは、普通は家柄が釣り合う相手を見繕うのだろう。

 むしろ、娘の婚姻を利用して上の階級に取り入ったり、家の力を強めるために婚姻を利用する、みたいなこともありそうだ。


 不思議だ。


 どうしてそういう考えなのか、と聞いてみたかったが、彼女は「俺」の母親じゃない。

 どんな方針だろうとどうでもいいことだ。小難しいことを聞いて、変に思われるよりは黙っていたほうがいいだろう。

 学校について、ピアノを弾いてもらったとか、今日の他愛もない話をしながら、頭の片隅にこの疑問が引っかかり続けていた。



 ◆ ◆ ◆



 風呂上がり。髪を整えてもらって、顔になにか塗られ、着替えて謎のドリンクを飲む。謎ルーティーンだ。

 しかしこのドリンク、本当になんなんだろうか。ラベルも化学式みたいな謎のアルファベットしか書いてない。マジで謎ドリンクだ。今日はちょっと酸っぱく感じる。ちなみに昨日は味わう精神的余裕がなかったので覚えていない。


「エリカさん、今日は一緒のベッドで眠りませんか?」


 何いってんだ?


 あ?

 ああ、そうか、そうだった。

 誘われているのは「俺」じゃない。「私」だ。


 まぁ、もう風呂にも一緒に入っているし、一緒に寝るぐらいどうでもいいか。なにか変なことするわけじゃないし。こっちに断る理由がない。すまんな、パッパ。


「わかりました」

 そう答えるとママ上はふふっと嬉しそうに笑みを浮かべている。

 この人は本当に娘のことを愛しているんだろう。


 と、ダンディが暗い顔をしてリビングにやってきた。

 俺とママ上を交互に見て、口を開こうとして、すごすご帰っていった。

 なんだ、どうしたんだろうか。さっきのことそんなにショックだったのか? めちゃくちゃ引きずってないか?

 いやー、それは申し訳ないことをした……

 そんな気はないんだよ、パパ上。あ、いや、「私」は本気で好きなのかもしれない。


「ヤストさん、安心してくださいませ。焦ることはありませんわ」

 ママ上はなにかを汲み取ったみたいだ。

「そ、そうか……」

 少しだけパパ上の顔色が良くなったように見える。そしてそのまま去っていった。

 ママ上は本当に鋭いな。

 誰だ、抜けている人かもしれないとか思っていたヤツ。


 俺だ。


「さて、もう寝ましょうか」

 そう言って「私」の手を引いて行くママ上の横顔は美しい笑顔だった。





「私」の母の部屋はゴージャスで豪華絢爛、目に入るものがすべてキラキラした、高級品に囲まれた部屋……ではなかった。

 部屋は広いがあまり物がない。

 そりゃ服とか化粧品とかはたくさんある。全部高級品だろう。だがそれ以外のものがあまり見当たらない。

 ヨガマットとバランスボールがあるぐらい。仕事が忙しくて家には寝に帰ってくるだけのOLの部屋みたいだ。

 ベッドも「私」が寝ている天蓋付きではない。大きいけど普通? に見える。俺も普通が麻痺し始めているかもしれないが。


 エリカさんは学校では様付けで呼ばれているぐらいだし、ダリアだし、学内でも上位に位置する家なんだろうな、なんて思っていたんだけどもしかしたら違うのかもしれない。

 よくよく考えれば使用人の数も家のサイズにしては少ない気がする。

 俺が確認したのは、子リスさん、四十代ぐらいのメイドさん、三十代ぐらいのメイドさん、コックさん、運転手さん、あと庭師っぽい人。山城さんも運転手だとすると七人。

 父と兄に付いている人がいないっぽいし。

 もしかして、屋敷がデカいだけで、無駄遣い出来るほどの凄まじい資産を持っているわけじゃないのかもしれない。


「私」の家は血筋がいい、という感じなのだろうか。

 アニメでもエリカ様の家庭や家柄についての情報は描かれてなかったと思う。正直、金髪縦ロールぐらいしか情報がない。

 そういえば父の仕事すら知らない。


 うーん、俺、家のことなんにも知らないんだな。

 ちょっとは知っておかないと学校での振る舞いも失敗しそうだ。

 情報収集を忘れないようにしておこう。


 母は化粧台に座った。なにかわからないが顔に塗っているようだ。

 手持ち無沙汰だったのでバランスボールに乗ってみようと考え、近づいてみた。すると思ったよりもバランスボールが大きいことに気がつく。自分のお腹のあたりまで高さがある。

 とりあえず乗ってみよう、とよじ登ろうと手に力を入れると玉が転がる。

 どうしようかと悩んだ末、玉に対して斜めにお尻を乗っけてから、地面を蹴って玉を回転させ、上に乗ってやろうと考えた。

「ふん!」と気合を入れてやってみたら上手くいった。だが、足がつかない。めちゃくちゃ不安定で怖い。なんて思ってたら背中からぐちゃっと落ちた。ぐぇ。

「あら、大丈夫ですの?」

 バランスボールなんて二度と乗らん。



「さ、こちらにいらして」

 美女にベッドへと誘われている。が、いやらしい気持ちにならない。

 もちろん、相手にそういう意図がないからというのもあるだろうが、成人した男の性欲は完全に失ってしまっているんだな、と実感する。

 体が女になったせいなのか、この体と血の繋がりがあるからか、わからないが。


 そんなことをごちゃごちゃ考えながらママ上のベッドの中に潜り込んだ。

 ママ上はめくりあげていた掛け布団を「私」の体にかけ直す。

 こちらを向いたまま掛け布団の上から「私」のお腹の当たりにポンポンと手を置く。


 なんだか懐かしい感覚だった。


「エリカさん、なにか悩んでいますの?」


 大正解だ。悩みに悩んでいる。

 もうこの体になってからずっと、ほぼすべてのことに悩み続けている。

 ただ、言えるわけもなく。


「いえ、そんなことありません」

「そうですか。話せるようになったら教えて下さいまし」

 深くは聞いてこないのは意外だった。


「女の子に秘密は付き物ですから」


 その笑みは珍しく、苦々しいものに見えた。


「もし、エリカさんがなにかこうしたい、って思ったのなら、そうしていいのですよ」

「こうしたい? どういうことですか?」

「何かを始めたいとか、何かになりたいとか」

「なぜですか?」

「今のエリカさんは、なんだか息苦しそうに見えてしまって」

 母は「私」の顔を見ている。優しげで、心配している。そんな顔。

 俺は天井を見て、視線を逸らすことしかできなかった。


「なにか、やりたいことや、言いたいことがあるんじゃないかな、って思いましたの」

 何もかも、見透かされているような気がする。

 怖いな。俺、今更、体を乗っ取ってることバレたらどうなるんだろうか、と考えると体がこわばるのを感じる。


「それが自分の幸せにつながるのであれば、わたくしは応援しますわ」


 その優しさに心がざわつく。心の内側から湧き上がる暖かさを覚える。


 だが


 この母の言葉も、思いも、優しさも。

 すべて俺が受け取るべきものじゃない。

 

「俺」のための、優しさじゃないのだから。


 少なくとも、俺は、「私」の人生を使って幸せになるべきじゃない。


 その資格はない。



 母から逃げるように、先ほどから気になっていたことを口にして話題を逸らそうと試みた。


「世間体は気にしないのですか?」

「あら、世間体なんて難しい言葉をご存知なのね」

 確かに小学一年生の語彙じゃないかもしれないがもう今更だ。


 母は優しげに「私」の髪を撫でる。その心地よさが今は怖かった。


「エリカさん、世間体なんて気にしなくて結構です。取り繕うのがわたくしたち親の仕事ですわ」


 力強い言葉だった。

 俺はその言葉の意味を知りたくて思わず、母の方を見た。


 少し細めた、優しげな目。それが、嘘偽りのない言葉だということを判らせてくれた。


 その言葉は、「俺」が聞きたかった言葉だった。

 でも、この言葉も「私」のためのもの。



 羨ましい。そう思ってしまった。

「人」として見てもらえている、エリカさんが。

 妬ましいとも。





 柔らかく、力強いなにかにすっぽり包まれた。

 風呂でも感じた、暖かさ。

 胸の内側が、塗り替えられていく。


「私」の上から声が聞こえてくる。


「言いたいことや、やりたいことが見つかったら、わたくしに教えてくださるかしら」

「一緒にヤストさんを説得いたしましょう」


 どこかおどけたような、冗談ぶった声色。

 胸の奥から、熱いものを感じる。暖かく、溢れていく。


「ありがとう、ございます……」


 喉奥が引き攣り、声も上手く出せない。

 ただ、自然と、涙がじんわりと湧いてきた。


 優しくも、強く抱きしめられる。


 そのまま、眠ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る