36.兄
ママ上にほっぺをもみもみされながら学校の話をしていると、三十代ぐらいの使用人の方、改めリカさんがまたやってきた。
「奥様、アキノリ様がお帰りになりました」
兄が帰宅したみたいだ。
すると、母は料理の準備を使用人の方にお願いしてから玄関へと出迎えに行く。
時間はだいたい午後七時ぐらい。毎日こんなことしてたんだな、なんて思いながらその姿を眺めていた。
帰ってきた「私」の兄は少し疲れたような顔をしているが、やはりイケメンだ。
そういえば学業の成績も良いんだったか。その上部活もちゃんとやってるって凄いな。パーフェクトイケメンだ。
「おかえりなさい、お兄様」
「ただいま、エリカ」
一言も声を掛けないのもおかしいかと思って一応挨拶だけしておいたが、帰ってきた声色は思ったよりも明るかった。
そしてまっすぐこちらを向いて微笑む姿は美しい。俺の中の乙女が暴れてる。
エリカさん、こんな素敵なお兄様を道連れに没落するなんて俺が許さないですわよ。
そんなことを考えながら母と兄の行動を眺めていると、兄は今から食事をするみたいだ。
二人は朝と同じ席に座っているから向かい合っている。兄は食事をして、母はお茶を飲みながら今日の話を聞き出そうとしている。
兄がちょっと居心地の悪そうな顔をしながら「はい」とか「ええ」と答えて箸を進めている。
この家は子どもに一人でメシを取らせない考えなのか。なんて思いながら眺めていた。
が、兄の様子がちょっとおかしい。いや、ちょっとじゃない。かなり嫌そうだ。
そんな兄の姿を眺めていると、なんというか、見ていられない気持ちになった。
なぜ、嫌そうにしているのか。その理由は正確にはわからない。
思春期……なのかわからないが、見られながら食べるのが嫌とか、母親とご飯を食べるのが嫌なんだろう。
そういうのなら俺にもわかる。
でも兄は突き放したりはできない。それは母が怖いからとかじゃなくて、それを言うのもなんだか子どもっぽくて言いたくない、ってところだろう。
二人の姿を見ていると、過去の感情が心の奥底からふつふつと湧き出てくる。
あのとき嫌だったこと、悲しかったこと。
「私」の兄が、自分と重なって見えた。
だからだろうか、なんとかしてあげたい、と思ってしまった。
兄のために、というよりも、過去の自分のために。
俺はソファから降りて、二人が座っている同じテーブルに着いた。
食事のときの席ではなく、母の隣の席にあえて座った。
「あら、エリカさん」
頭を撫でられる。なんか最近よく撫でられる。ママ上に撫でるブームが来ているのだろうか。
その撫でる手に身を委ねながら、兄と会話を始めてみた。
「お兄様は帰ってくるの、遅いのですね」
「……そうだよ。部活があるからね」
「それはお疲れですね」
マズイ、思ったより深いことを聞けない。
そもそも何の部活なのか、とか聞けないし。
兄は「私」をしっかり見ている。
俺はどう話題を続ければいいか困って、ごまかすようにぎこちなく作った笑顔をしていた。
どうするか迷っていたが、話題は兄の方から提供してもらえた。
「エリカだって習い事、頑張ってるでしょ?」
「あ、えっと……今は行ってないので頑張ってないです」
「あれ、そうだったんだ。やっぱりまだ体の調子、良くないの?」
「いえ、全然。元気いっぱいです」
あはは、と軽く笑う兄の姿。イケメンだ。
「そっか、安心した」
やだぁ、好き……
「いつから習い事、再開するの?」
「えっと……」
「来週」
言い淀んでいるとママ上の助け舟が来た。
「来週からです!」
その軽妙なテンポの良さが面白かったのか、兄はまた軽く笑っていた。
傍らで紅茶を淹れる音が聞こえた。
母が「私」のカップにおかわりを注いでくれていたみたいだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
母は微笑を浮かべている。なにか嬉しいことでもあったのだろうか。
「アキノリさん、エリカさんにまた新しいお友達ができたんですって」
「……そうなんですか」
淹れてもらったお茶に口をつける。
同じ、マルコポーロってヤツみたいだ。美味しい。
「横見瀬さんって方みたいで。あ、そういえばエリカさんもファッションに興味持ってくれたみたいですわ」
「そうですか」
兄の返しは少し冷たい、というか愛想がないように聞こえる。
「私」と会話しているときと全然違う。
「ごちそうさまでした」
そう言って、兄は食器を自分で片付けようとしていた。
それを見て俺はまた意外だな、と思った。
使用人の方もいるし、そういうのは全部任せるもんだと思っていた。
実際、朝食や夕食はそうしている。
だが、もっと意外なことが起こった。
「アキノリさん、わたくしが下げますから座っていていいのですよ」
そう、母が下げようとしている。
「いや、いいですって。食器ぐらい自分で下げられます」
「いえいえ、わたくしに下げさせてくださいまし」
謎の押し問答が始まった。
なんとなく、兄の気持ちがわかる。
こうやって、子ども扱いされるから余計に嫌な気持ちになるんだろうな、と。
母親にはなかなかわからない気持ちなのかもしれない。
もしかすると、女性には理解しづらい感覚なのかも。
でも、俺にはなんとなく兄の気持ちがわかる。
だから、今日は兄の味方をしようと決めた。
「お母様、お兄様はもう大人ですから、食器ぐらい自分で下げられると思います」
「そ、そうですけど……」
んん、と複雑そうな顔をしている。母にも母なりの理由があるのだろうか。
「お兄様はそのお皿すらも下げられない人なんですか?」
「そんなこと無いですわ、でも……」
「もういいでしょ、僕も疲れてるから早く風呂に入りたい」
そう言って、兄は食器を自分で抱えて洗い場まで運んでいった。
結局、ぽつんと残ったのは母だった。
母の後ろ姿は少し寂しそうに見えた。
母は母なりに考えがあるんだろうけど、俺にも兄にも、それは理解できない。
申し訳ないけど、母が寂しそうにしていても俺は同情できない。
頭ではそう思っていても、心はじわりと痛む。不思議な感覚だ。
「私も部屋に戻ります」
この痛みから逃げたい一心で、俺は部屋に逃げ込むことを決めた。
「わかりました、お風呂の時間になったらお迎えに行きますわ」
母はあまり気にしていないように見えた。意外と日常的なことなのだろうか。
だとすれば、心配なのは兄の方だ。
俺みたいに、家にいることが苦痛にならなければいいけど。
◆ ◆ ◆
お風呂上がり、さっき母が言っていたネックレスをそれとなく探してみたが、自室では見当たらなかった。
というより、エリカさんのアクセサリーや小物類は一切見かけなかった。
カルティエって言っていたし、他の小物類も全部同じぐらいの高級品だろうから、別で保管されているのかもしれない。
ま、後回しでいいだろう。
さてそろそろ寝るか、というタイミングでノック音が部屋に響いた。
「はい、どうぞ」
ダンディかママ上か、どっちかだろうな、なんて思っていたら、入ってきたのはイケメンお兄様だった。
お風呂上がりでさっぱりした顔。
やだぁ、イケメン……
「もう寝るところだった?」
「はい、そろそろ寝ようかと」
「今日はありがとう」
何がだろう、とは思わない。夕食時の話だろう。
ただ、「私」が兄の気持ちを理解できているのはおかしいような気もする。
どう答えるべきか、と悩んでいると兄は続けた。
「……あれ、僕を助けてくれたのかな、なんて思ったけど勘違い?」
「あー……いえ、なんとなく、困ってるのかな、とは思いました」
ふふっ、とまた軽く笑う。イケメンにしか許されないイケメン笑いだ。
「さすがエリカだね。賢すぎて嫉妬しちゃうよ」
頭を撫でられる。緑園寺家ではエリカさんの頭を撫でるのが最近のブームなのかもしれない。
「今度なにかお礼するよ」
「いえいえ、気にしないでください」
「ううん、僕がしたいんだ。可愛い妹のために。いいでしょ?」
トゥクン……
マジでかっこいい。「私」が惹かれてるんじゃない。「俺」が惹かれてる。
とは言え、本当にお礼とか要らないんだけど、受け取らないのも変か?
「じゃあ……楽しみにしておきます」
少し迷ったが、ここは素直に受け取ろう。
「うん、楽しみにしておいて。おやすみ」
そう言って、兄は爽やかに去っていった。
パタン、と扉が閉じた後の静寂が、部屋に「私」しかいないことを意識させる。
これだけ大きな部屋でも、人が去った後の熱が引いたような、妙な寂しさを残すのは変わらないんだな、と感じる。
実は兄を助けたことについて、さっきまで少し後悔していた。
自己満足のために動いてしまったな、と。
相手の感情を勝手に想像して、勝手に寄り添ったつもりになってるだけで、本当に助けが必要かどうかなんて、わからなかった。
俺の少ない経験から、勝手に決めつけて動いてしまった。
俺が救われたかっただけなのに。
だから、面と向かって「ありがとう」と言ってくれたのは嬉しかった。
さっきのは「俺」だから助けられた。
と、思う。
それはすごく、すごく嬉しかった。
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