Ⅱ‐14 知り合い

 約三時間の公演が終わり、わたしがひっそりとそのコヤを去ろうとする。

 絶え間ない笑いの渦に巻き込まれ、笑い過ぎて顎が痺れ、けれども心は劇の内容の重さにぐったりとしている。

 きっと、そこに油断があったのだろう。

 わたしは一瞬だけ、何かを感じてしまう。

 けれども幸いなことにわたしの感じた何かは、わたし自身に向けられた呼び声によって掻き消される。

「やあ、来てくれてたんですか? 嬉しいな」

 驚いて振り向くと、そこに氷水木十さんの顔がある。

「どうですか、お茶でも」

「ああ、ええ、はい……」

「誰か、いましたか?」

 えっ、まさか?

「ここだけの話ですけど……」

 と声を潜めて木十さんが呟く。

「カヲルさんって、もしかして乙卯羽衣子(きのとう・ういこ)さんのお嬢さんじゃありませんか?」

 氷水木十さんが小声で囁くように口にしたその名前は紛れもない――脚本家であり、ときどきは劇作家の――わたしの母の本名だ。

 タオの見立てはともかく、氷水木十さんがわたしのことを気にしていたのは、どうやらその辺りが関係するらしい。

「いいんですか、劇団の方とご一緒でなくて……」

 誘われるまま付いて行った隣駅のスナックでわたしが問うと、

「まあ、気になさらないでください」

 と木十さんが答える。

 それで――

「母とお知り合いなのですか?」

 と再度わたしが問うと、

「姉弟子みたいなものですかな」

 と遠い目をして木十さんが云う。

「そうなんですか?」

 合点はいかないが、わたしはそれで納得するしかない。

「わたしのことは母から?」

 と別の角度から疑問を打つける。

 どちらかというと、そのことが気になっていたからだ。

「何度かお見かけしたことがありますよ。お宅で……」

「はあ……」

 わたしの返事には色がない。

 事実、まるで憶えがないのだ。

「髪の毛がありましたしね、その頃には、まだ……」

 そう云って木十さんが笑う。

 話を聞くと、それはわたしが死体として生きていた期間のことであるとわかる。

 だとすれば、憶えていなくても不思議はない。

 わたしをこの世界に帰してくれた元カレと出会う以前のこと。

 思い返せばあの当事、わたしは母の心労の元になっていたのだ。

 今更のように申し訳ない想いが込み上げてくる。

 もっとも今のわたしの状況が母の心労になっているのか、いないのか、わたしには良くわからないが……。

 母は直接仕事を与えるなどして助けることはなかったが、木十さん――当事は赤城山上輔と名乗っていたらしい――に目をかけていたようだ。

「色々なことを教わりました」

 と木十さんが当事のことを慈しむように口にする。

「もっとも実際には何も教えてくれなくて、いつだって自分で考えるように、とアドバイスされましたが……」

 まあ、実の娘から見ても、それが母の手解きだろう。

 母は自分の持っているテクニックも、メソッドも、思想のようなものも、誰にも押し付けない。

 母が他人に教えるのは、出来ることなら何処にも拘りのない、相対的なものの見方だ。

 取り敢えずわたしにはこれがこう見えるが、あなたにもこれがこう見えるかどうかはわからない……ということをわたしは知っている。

 わたしは今わたしが示しているAという立場を崩す気はないが、あなたがわたしにBという考えを持って欲しいと望むならば、まずその根拠をはっきりと示しなさい。

 一言で云おうとすると抽象的になってしまうが、つまり、自分で調べもせずに単に誰かの言動に乗るのはお止めなさい、ということだ。

 例えば領土問題でも、エネルギー問題でも、まず自分でわかる範囲で調べ、集会などがあるなら参加し、事実は無理でも実態を掴めということだ。

 もっとも、そんな説明でも抽象的過ぎるかもしれないが……。

「カヲルさんのお母様とお会いしなくても、いずれぼくは今のぼくに至ったかもしれません。ですが、それにはもっと長い時間が――ことによると実際に生きられる時間よりも長い時間が――かかったかもしれませんね」


昔/今


 昔、わたしには恋人がいた

 今、わたしには恋人がいない

 昔、わたしには命がなかった

 今、わたしには命がある

 昔、わたしには一つの夢もなかった

 今、わたしには多くの夢がある

 昔、わたしにはあなたを想う心があった

 今、わたしにはあなた以外の人が恋せるような気がしている

 昔、わたしはたくさんの大変なことを味わった

 今、わたしはたくさんの大切なことを味わっている

 ありがとう、感謝します、昔のわたし

 そして、ありがとう、感謝します、今のわたし


 箱庭トラヴェラーズの演目『僕が君を食べた朝、母も僕を食べたのだった』の最終公演日があっという間にやってきて、いろいろな意味で油断していたわたしは前日興奮状態で眠れない。

「遠足前の小学生じゃないんだから……」

 と、わたしの腫れぼったい顔を見てムラサメが呆れながら云うと、

「独りで眠れないなら泊まりに来れば良かったのに……。ウメコ、しばらくいないからさ。海外出張で……」

 とタオが不謹慎なことを宣う。

「どうせ、おさんどん目当てだろ?」

 と、わたしが返すと、

「バレないなら浮気してもいいって主義だからさ、ウメコは……」

 と本気とも嘘ともつかない口調でタオが返す。

 わたしは舌を出して、

「イーっ」

 をする。

 それからしばらく経って舞台の幕が上がると、わたしたちバンドの位置する舞台奥にも多くの拍手が送られてくるのが実感できる。

 舞台初日から約一月間に、わたしたちに対する評判が上向いてきていたのだ。

「おーし、じゃ、いっちょ行こうか!」

 と珍しくタオがわたしの後ろでそう叫ぶ。

 横を向くとムラサメも、

「うんうん」

 と首肯いている。

 わたしはまたしてもタオとムラサメから勇気を貰ったわけだが、そのわずか前、幕が上がったそのときに捉えた二つの視線が、さらにわたしを勇気付けてくれる。

 わたしが立つ側から見て、右寄りの客席前列にはわたしの父が、逆に左寄り後列には母の姿が見えたからだ。(第二章・終)

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