Ⅱ‐2 ある人影

溶鉱炉/水浴び


 割れて粉々に砕け散ったのはわたしの映った窓ガラスではなくて

 窓ガラスに映ったわたしの方だった

 すべてに潤いを失ってカサカサに乾いてしまうのならば

 素焼きのお茶碗のように渋い焦茶色に透き通って

 壊れてしまえば良いと思ったのだ


 過去に一度でも美しい頃のあった人は幸いだ

 ただそれだけの想いを胸に一生を暮らして行ける

 ただし、強靭な精神力を持つ者、に限るが……

 ただし、他人(ひと)との比較が意味無しと思える者、に限るが……


 何百年の時が経っても

 月に刻まれたあの足跡は残っている

 けれども百年にも満たないほんの僅かな時間に

 人は、心を得、笑い、泣き、心を失い、退場する


 しばらくの間ですけど、動物だったことがあるんですよ

 酒場で知り合った言語学者の老いた妻は云った

 その間、いったいどんな気分がしたのです

 自然と口が動いて、わたしが問うと

 あら、全然憶えていないのよ、だから幸せだったんじゃないかしら

 さして楽しそうにでもなく、老婦人が答える

 言語学者の銀髪が彼女の言葉に乗って、さよさよと靡く


 みんな忘れてしまうのだから人生なんていらない

 すべて失ってしまうのだから友達なんていらない

 この世界の中にはどうしたって 叫んだって わたし独りしかいないのだから

 この心の外には狂ったって 脳死したって わたしの他には誰もいないのだから


 今日は大きなカピパラになってお風呂に入っている夢を見て寝よう

 そしてもし次の日にわたしが目覚めたならば

 わたしはその日を受け入れるだろう


 タオ及びムラサメとバンドを組んでしばらくしてライブハウスに人影を見かける。

 客層から云えば不釣合いだったが、体型がカッコいいので、そんなに違和感を感じない。

 ライブが終わって、さっそくムラサメに、

「あの後ろにいたオッサンさ、カヲルのことガン見してたよな」

 と指摘される。

「ああ、そう。おれも感じた」

 とタオも口を揃え、。

「誰、知り合い?」

 とムラサメ。

「それとも知らないヤツ?」

 で、わたしがどう答えようか迷っていると、

「まあ、云いたくないんなら云わなくてもいいけどさ」

 とタオがいつもの気遣いを見せる。

 ま、それはタオにとって気遣いではなく、普通の条件反射に過ぎなかったが……。

「来ないかな……」

 しばらくしてから、わたしが云う。

「ここに……。そういうの結構平気なヒトだから」

 けれどもその日、謎の中年男――というよりは壮年または初老の男――はライブハウスの控え室に現れない。

「なんだ、つまらない」

 ブツブツ云いながら着替えを済ませ、荷物を持って階段を昇り、三人でビルの外に出て向こうの通りを見遣ると人影があり、その日はペダルとスネアと追加用のシンバルだけが荷物のタオがすぐに気づいて、わたしに目配せする。

 だから夜気がちょっと寒いこともあって、わたしはその謎の人物に近づいて行って声をかける。

「久しぶりね、お父さん」

 さすがに昔の愛称で、わたしは父を呼びはしない。

「よく、ここがわかったわね」

「おまえ、化粧が濃くないか?」

「これはバンド向けなのよ」

 と一部しかメイクを落としていない自分の顔を頭の裏で想像しながら、

「バイトとかでは薄いわよ」

 と云う。

 ツバタさんには申し訳ないが、わたしのステージメイクはメジャーレーベル・デビュー前とほとんど変わっていない。

 それからタオとムラサメを振り返り、

「今のバンドメンバーの田尾さんと村雨さん……です」

「よろしく」

 すると神妙な雰囲気の挨拶合戦が初まり、

「いろいろご迷惑でしょうが、娘をよろしくお願いします」

 と父が世間の父親らしい言葉をタオとムラサメに告げ、合戦がぎこちなく終わる。

「今日はこれからどうするの? こっちに泊まるの?」

 とわたしが父に問うと、

「いや、これから名古屋まで行く。泊まるのはそっちだ」

 と速攻で父が答え、

「ふうん。相変わらず、忙しいのね。……で、どうしてここが?」

 と、わたしが重ねて問うと少しの間があり、

「顔は別人だったが、声はおまえだったからな。ウェブで見かけたよ。有名になったんだな」

 と感慨深げに父が云う。

 だから――

「ネットで有名なのは、こっちの二人の方だよ。でも三人で、きっと、もっと有名になるから」

 とまだアマチュアに近いとはいえ、詩人の言葉とは思えない発言をわたしがする。

 それからしばらく弾まない会話が続き、

「じゃ、オレは行くから……」

 とわたしたち三人に言い残し、父がその場から去る。

 すぐにタクシーを捕まえて見えなくなる。

 びゅうと夜風が荒ぶ。

「おめえら、あたしに普通の親がいて不思議だな、って顔してんじゃねーよ!」

 景気付けにわたしがそう叫ぶと、

「ま、そうだけど、逆に安心したわ」

 とタオが云い、

「ああ、おれも……」

 とムラサメが同意。

 あの日はそれからタオの軽乗用車――主にドラムセット移動用――でアパートまで送ってもらい、それから母に電話する。

「生きてるの?」

 開口一番、そう訊かれたので、

「生きてるわよ! どうにかね」

 と、むすっとた態度で、わたしが答える。

 ついでに云わなくてもいいことを付け加える。

「それに、あのさあ、今、けっこう幸せなんだよ」

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