Ⅲ‐9 ラ・カンツォーネ・ディ・モルト・パスティチェリア・イシナベ

 オオヤギさんの運転で連れて行かれたラ・カンツォーネ・ディ・モルト・パスティチェリア・イシナベの本社工場は新幹線も止まるターミナル駅のその先にある。

 外観に年季が入っていて、どう見ても昭和初期か、少なくとも戦後の建築と思われたが、建屋の中は驚くほど清潔で大中小様々な機器と焼き釜がガラス張りの正面入口から覗ける。

 受付で無駄に待たされることもなく、取締役社長の石鍋由美子さんがさっそく、お出迎えだ。

「ようこそいらっしゃいました。遠かったでしょ?」

 と貫禄のある身体を波打たせながら挨拶する。

 ついで工場見学用に設えられたらしい喫茶室に案内される。

 喫茶室にはツアーの客らしき人たちも大勢いる。

 表の駐車場に観光バスがあったから、そのお客さんたちだろう。

「お世話になります」

 とツバタさんが云うと、

「こちらこそ無理を申しまして……」

 と由美子社長が応じる。

 それから、わたしの方をしげしげと見、

「あなたがカヲルさんなのね?」

 と自ら確認するように云うので、

「はい。わたしがカヲルです」

 とわたしが応じ、深々と頭を下げる。

 今日のわたしのメイクは――ツバタさんの意見を、それだけは突っぱね――ステージでしているような派手なものではない。

 だから昔からの知り合いが見れば、わたしがカヲル以外の何者であるかわかるだろう。

 少しだけ、わたしにはそれが心配だ。

 喫茶室では紅茶と出来立ての焼き菓子でもてなされる。

 それから二言三言事務的な会話があり、未完成の歌をお聞かせるため、応接室に移動する。

 わたしは朝ツバタさんの事務室で歌った歌をまったく同じように歌い、そして歌い終える。

 その間、由美子社長の思案しているような表情から、わたしは何も読み取れない。

「写真をお願いしてもよろしいですか?」

 その後、ツバタさんがプロデューサーの仕事に戻り、わたしと由美子社長のツーショットを含む数葉の写真が応接室で写される。

 それから工場見学及び工場での写真撮影に移り、控室に用意された割烹着と衛生帽子とマスクに着替えさせられる。

 胸に身分証を付ける必要があったが、名刺がそのまま入れられる加工がしてあったので、バンド名と会社名、それに会社所在地しか記されていないシンプルな自分の名刺を挟み込む。

 カメラは気を利かせたオオヤギさんが水中用の防水ケースを持って来たので、それをアルコール消毒することで持ち込み可となる。

「本来おれがその辺りを確認しなけりゃならなかったんだがな」

 とツバタさんがそっとわたしに耳打ちする。

 だから――

「オオヤギさんがわたしじゃなくて良かったですね」

 と特に皮肉のつもりもなく、わたしが応える。

 お菓子生産ラインの説明は由美子社長が直々に行う。

 通常の工場見学では生産ラインが良く見えるように幾枚もの大きなガラスが嵌め込まれたまるでギャラリーのような通路から展覧会で絵画を鑑賞するように行われる。

 お菓子の生産ラインを覗き込むように見るわけだ。

 よって、わたしたちのように直接ラインに入り込んでの見学は稀なことだと説明される。

「稀ってことは、まったくないわけではないってことですよね?」

 とわたしが問うと、

「地元のVIPとか政治家さんに頼まれたら断れませんから……」

 と美代子社長が笑いながら応える。

 ラ・パスティチェリア・イシナベ的に只今爆発的に人気急上昇中のラ・フェスタ・ディ・アンジェリ(天使の祭り)は昨年膵臓癌で亡くなった由美子社長の夫で前社長の開発商品ということだ。

 製品のアイデアから始まり、材料の選定及び作製法の確立までに五年の歳月を費やす。

 その素晴らしい味の秘密の一つは使用している特殊なミルクで、それに辿りつくまでの夫の努力には妻ながら頭が下がった、と美代子社長がと力強く云う。

「だって伝統があるとはいえ、見た目は、ただの町の大きなパン屋さんですからね」

 供給元の販売部長はその時点で販売量が見込めない商品でもし悪評判を取ったら、とミルクの供給を懸念したらしい。

「一般市場には出まわらない、そんな特殊なミルクを、それでも口説き落として分けて貰って、フェスタ・アンジェリを焼いて持って行ったんですよ。そこからは後は世間に良くあるお話で……」

 最後の部分はそんなふうにはしょられたが、供給元にお菓子の味を認められた場面では、美代子社長の肉に埋れた細い両目に涙を溢れる。

 その姿もすかさず写真に収めるオオヤギさんだ。

「実際に生産ラインを見てどうだい。曲や歌詞に付け加えるインスピレーションとか沸いてきた?」

 とツバタさんは何処までも仕事熱心だ。

「うーん。いろいろと感じてますけど、発酵するにはまだ早いですね」

 だから卒なくわたしが応じる。

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