Ⅰ‐5 ウメコさん
起きていたはずなのに いつの間にか眠ってしまって
着いた先はまたいつもの地獄で人で溢れていた
仕方がないので ぼくはきみになったぼくを探そうと広場に足を踏み入れた
ああ、きみは何処にいるんだ?
「タオ、何か云って……」
そのつもりもないのに自分の発した声が思ったより気怠く且つハスキーで且つ少しだけセクシーだったので、わたしが自分で吃驚する。
それで恥ずかしくなって黙ってしまう。
タオが何を考えているかはわからない。
わたしがいるのはタオの家でマンションの一室で三階で平日なのでウメコさんはいない。
ウメコさんというのはタオの奥さんの名前だ。
タオと結婚する前は楠本梅子だったと聞いている。
まるで遠い戦争前か、あるいは戦時中の女性名のようだが、ウメコさんは二十八歳で見た目はもっと若い。
家系はその昔、備前国――現在の岡山地方――の華族だったらしい。
今でも地元では有名人で父親は個人医院を母親は英語教室を経営している。
姉も兄も本人も、もちろん父親も母親も直族の祖母も祖父も東大かまたは旧帝国大学の出身者で――多くが海外留学も経験していて――当然ウメコさん自身もそうだ。
タオと出会った……というより見初めたとき、ウメコさんはまだ学生だったが、現在は医薬品関連の外資系企業で研究者をしている。
わたしとか、ムラサメとか、あるいは当事者であるタオ御本人とは住む――もしくは棲む――世界がまったく異なる存在。
偶然がが必然だったのか、それとも必然が偶然を呼び込んで蓋然が生まれたのか、わたしにはさっぱり見当が付かない。
「ペテロって英語だとピーターなのな。これまで知らんかったわ」
不意にタオが口にする。
心持ち気怠そうに……。
「なによ、それ?」
すぐに答えはない。
だから、わたしが言葉を紡ぐ。
「そんなこと云ったら、シモンはサイモンだし、フィリポはフィリップ、アンデレはアンドルーかアンドリュー、バルトロマイまたはワルフォロメイはバーソロミュー、トマスはトーマス、ヨハネはジョン、ヤコブはジェイコブだけどジェームズで、マタイはマシュー、マルコはマーク、ルカはルーク、ステファノはスティーブかスティーブンで、イスカリオテのユダはジュダかジューダス。ちなみに『イスカリオテ』の『イス』あるいは『イーシュ』は『男』の意味らしいから意味は『カリオテ出身の男性』となるみたいだよ」
「詳しいなあ」
「ずいぶん前に調べたから憶えてるだけ。そのあとは記憶力が落ちるばかりで……。ね?」
「何さ?」
「ウメコさん、文句いったりしない。その、わたしのこと」
「全然しない。何かしたのかよ?」
「何もしてねーよ! ああ、だからいいのか。納得。あーあ」
「腹、減ったな」
「何か作ってやってもいいけど、今日は詞を作りに来たんだからな。それにさっき素麺、食ったじゃん」
「タバコ吸ってもいい?」
「ダメ! 止めるっていったのタオの方だぜ。まだ二週間、経ってないじゃん」
「はあ……」
「ため息吐いてんじゃねーよ。百歳になってもドラム叩きたいんだろ!」
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