第三十一話 アナグラム

 そう来たかと、有江は思った。

「アナグラムですか」

 気がついてはいた。「栃辺有江」は「とちべありえ」であり、順番を入れ替えれば「べあとりちえ」となる。あまりにも露骨すぎて話題にもできなかった。

「そうです、アナグラムです。生まれ変わりを知っていたみんなが、生まれるときに『ありえ』にしてちょうだいと、お父さんお母さんに向けて念じたのでしょうね」

 西藤さんの説明は、ひとつひとつが軽い。


「『みんな』って誰です?」

「生まれ変わりを知ったこの意識体です。『みんな』でもあり『個』でもあります。その『みんな』が念じたのです」

「念じるくらいで、わたしの名前が『有江』になるのですか」

「そうです、がんばって念じれば、なります」


「詳しく説明してください」

 有江は、モフ狼を抱きかかえながら言う。

 モフ狼は、西藤さんを睨みグルルルと喉を鳴らしている。


「私たち魂だけになってしまった者でも、現世の生者に影響を与えることはできるのです。冥界からであっても、現世の非常に微弱な電気信号や分子レベルの運動であれば、影響を与えられます。脳細胞間の電気信号に働きかけて、記憶を思い出させるとか、ひらめきを与えるとか、百パーセントではないのですが、できないこともないのです」

「西藤さんがお母さんの誕生日に花束を贈っていたことを知ったのは、念じていたのですね」

「そうです! いつもより強く念じたので、ダンテさんにうまく届きましたね」

「これですっきりしました。突如、古風な言い回しを口にしたり、知るはずもない日本の行政制度がわかったり、現代の生活に難なく適応できていたりするのが、自分でも不思議でならなかったのです」

 解決してよかったですとダンテと西藤さんは、手を取り合い喜んでいる。


――よくない。


「生まれ変わりがあるとすれば、現世の人口増加を賄うだけの魂の数は、ダンテさんの時代にはなかったはずです」

 自分が誰かの生まれ変わりだと言われ、気分がよいはずがない。有江は、輪廻転生を否定する切り札を繰り出した。

「やだなあ、有江さん。冥界は時空を超越している世界なのですよ。魂の数は、今日も昨日も明日の分も、今も昔もこの先も、数として勘定できるのですから、もはや数の概念は崩壊しているのですよ。そもそも意識体はひとつでもあり、無限でもあるのですから、ちぎり方次第で数が変わる餅みたいなものです」

 西藤さんのうんざりしたような表情にカチンとくる。


「わたしには、生まれ変わる前の記憶がありません」

 これも、輪廻転生を否定する理由のひとつだ。

「やだなあ、有江さん。冥界では肉体を保持でき――」

「モフ狼、行け!」

 モフ狼が、西藤さんに飛びかかる。

「すみません、きちんと説明しますから。この狼をどかしてください」

「モフ狼、戻れ!」


 立ち上がりながら、西藤さんは説明する。

「冥界では肉体を保持できないので、思考は脳細胞間の電気信号によらずに行われています。意識体の内部で思考が共有されるイメージでしょうか。ですから、生まれ変わる際に赤ちゃんの脳細胞内に電気信号として思考を送り込むことができなければ、記憶になることもないのです。まれに生まれ変わる前の記憶を持つ人がいますが、ダンテさんに私の意識を念じ送ったのと仕組みは一緒です」


「百歩譲って、わたしがベアトリーチェの生まれ変わりだったとしても、今日は、呪文が必要でした」

「大人になると、力は弱まるんです。子供のころ見えていたものが、大人になると見えなくなったりするんですよね。純真さが、なくなるからなのかな。あっ、有江さんが純真でなくなったということではないですよ。いや、なくなったのかな」

 説明がなんとなく理解できるだけに、怒る気にもなれない。


 歩きながら質問し、立ち止まっては説明を繰り返し、有江たちは広い草原にたどり着いた。

 目の前に『地獄の門』が、そびえたっている。

 どことなく、ロダンが造った『地獄の門』に似ているが、扉周囲の飾りは、ごにょごにょと凹凸があるだけだ。間違いなく、有江が創り出した世界なのだろう。

「この門を過ぎる者は……」の碑文もない。


「この門を過ぎると、アケローン川に続くのですね」

 ダンテが、自著を思い出しながら説明する。

「ダンテさんの世界では、そうでしたが、有江さんの世界はどうなるでしょうね」

 少なくても魂が洗濯機のように回っている悪趣味さはないでしょうと、西藤さんは、またディスる。


「先に進む前に、ここで試すことがあります」

 ダンテは、そう言ってジャケットのポケットから、すずりを取り出した。いや、硯に似たいつぞやの通信機だ。


「それ、使えるのですか?」

「もちろんですとも。これ一台で何億円もの予算が投じられているそうです。西藤さん、そうですよね」

「そうです、開発班の自信作ですが、たいへんな金食い虫です。できれば、私が最初に使いたかったんですよね。持ってこられなかったので仕方ありませんが……うまく回収できたんですね」

 西藤さんも持っていたようだ。


「事故当時、西藤さんのアパートに、そんな物があったとは陽人さんは言っていませんでしたよ」

 有江は、ふたりを見る。

「テディベアの中に仕込んでおいたんです。言っておきますが、テディベアが好きなわけではないですよ。たまたま、返礼品で届いただけですから」

 西藤さんは、恥ずかしそうに弁解する。

「調世会は、警察組織でさえ、どうにかできるそうです。常磐道さんがテディベアもろとも回収したと聞きました」


 話しながら、ダンテは機器の表面をスライドさせ、現れたキーボードで何やら打ち込んだ。

 ぼんやり光る白黒液晶に「HELL GATE MAE」と表示されている。

 待ち合わせ場所みたいだ。

 送信キーを押した。


 五分ほど経過したが、何も反応がない。


「失敗ですかね」

 ダンテがそう言ったとき、通信機の受信ランプが赤く点滅した。

 画面に「RAOK?」と表示される。


 愛永からの返信に違いない。

「有江、だいじょうぶ?」の意味なのだろう。

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