第十三話 長野県立科町
金曜日。
有江は、いつもの出勤時間より一時間三十分早く家を出る。
外は、まだ薄暗い。
毎朝、決まって吠えられる北隣の飼い犬に、今朝は吠えられなかった。寝ているのか、寒さで犬小屋から出てこられないのか、どちらにせよ、身構えていただけに拍子抜けした。
有江は、白い息を吐きながら、冷え切った街並みを駅へと歩く。あまりの空気の冷たさに、いつもの街路樹も信号も尖って見えた。
駅に近づくにつれ、通勤者が増え始める。
駅前ロータリーにバスはなく、白のミニバンタイプの車が一台停まっている。
車から陽人が降りてきて、手を振った。
「有江さん、おはようございます。寒いですから、さあ、早く乗ってください」
陽人は、助手席側に回り、ドアを開けてくれた。
「アリポン、おはよう」
「有江さん、おはようございます」
後部座席には、愛永とダンテが座っていた。
「おはようございます。ダンテさん、後ろの席でいいのですか。ていうか、愛永さんは、ダンテさんが隣でいいのですか」
「私は平気です。ダンテ先生は、助手席の方がいいみたいですが」
愛永は、そう言って、いたずら気に笑った。
「ぼくが後ろに座るように言ったのです。ダンテさん、一度は前に座ったのですが、勝手にナビとか操作するものだから、危なっかしくて」
運転席に乗り込みながら、陽人が言った。
「そういうことです」
ダンテは、肩をすくめた。
午前五時五十五分、出発する。
いつも渋滞している道路も、朝の六時ならスムーズだ。
環状八号線を北に進む。
「陽人さん、朝早くから付き合わせてしまってすみません」
「いや、平気です。毎朝、意思に反して元気ですから」
――判断に困る。
「西藤さんの身元の判明もそうですが、ダンテさんの世界に戻る手掛かりが見つかるかもしれませんし、なにより、みんなで出掛けられて楽しいではないですか」
ダンテは陽人にどこまで話して、陽人はどこまでダンテの話を信じているのか、有江は気になった。
「西藤さんの身元は、警察でも調べているのですか」
「本署に頼んで照会してもらっただけです。行方不明者届は出ていなかったのですが、たしかに立科町には『西藤』姓が多いので、佐久警察署でも管内の交番に聞いてくれるそうです」
「コンピュータのボタンひとつで、調べられないのですか」
有江は、意外に思った。
「役場に調べてもらうには、捜査事項照会という正式な手続きが必要ですからね。今回のケースは事件でもないので、聞いてまわるしかないのですよ」
「警察も地味な仕事ですよね」
愛永は、そう言って後部座席で頷いている。
目白通りから関越自動車道に入る。
新座料金所、所沢ICを過ぎたが、単調な景色は変わらず続いている。
陽人と愛永は、最近見た映画の話で盛り上がっている。有江もホラー映画のターンには、ここぞとばかりに話に入った。
ダンテは、何も話さずに陽人の運転を見ている。
三芳PAを過ぎた。
朝の内は
「西藤さんは、東京で何をしていたのでしょうね」
映画の話も出尽くしたところで、有江はつぶやいた。
「嘘の勤務先を書いていたということは、名前も偽名なのですかね」
今から立科町に行こうとしている理由を、根本から揺るがすようなことを陽人は口にする。
「偽名なら、一般的な『斎藤』にしますよ。いや、もっとありふれた『鈴木』とか『佐藤』とかの苗字にしますよね。勤務先を偽ったのは、アパートを借りやすくするためでしょ」
愛永が否定してくれた。
「お隣の山田さんは、西藤さんがアパートから出掛ける姿も見掛けています。ただ、決まった時間というわけでもなかったそうです。顔を合わせれば、挨拶は普通にしていて、特段、隠れようとしていたわけでもなさそうです」
今まで黙っていたダンテが、口を開いた。
「有江さんにメールしたとおり『水洗』トイレのタンクの中には、何も入っていませんでした。キッチンの棚や引き出し、押し入れの中にも何も残っていませんでした。ただ、壁には、ピンの刺し跡が多く残っています。引き抜いた跡はまだ新しく、西藤さんは何かを壁に貼っていたのでしょう。でも、それらしい飾り物やポスターなどはありません。警察で預かっているのでしょうか」
「いや、押し入れには寝具と洋服類があるだけでしたよ。どこにも壁に貼るような物はありませんでしたね。警察官になって、ぼくにとっては初めての『事件』ですから、よく憶えています。暗がりの中、人が倒れているのを見たときには『殺人事件』ではないかと、不謹慎にもちょっと期待しちゃいました」
陽人は、運転しながら答えた。
「下根田くん! 今、なんて言いましたか!」
ダンテは、大きな声を出した。
怒られたと思った陽人は「ちょっと思っただけですよ」とあわてて言い訳する。
ダンテは、パソコンを取り出すと、それきり黙り込んでしまった。
景色がひらけ、緑が多く見えるようになった。
「暗がりの中、西藤さんを見たのですね。陽人巡査が、アパートに入ったのは、夜十時過ぎですよね」
愛永は、ダンテの代わりに話を続けた。
「山田さんから通報があったのが、午後十時二十三分ですから、不動産屋さんに来てもらって、部屋に入ったのは午後十一時ころですかね」
「西藤さんは、明かりを点けていなかったのですね」
「そうです。部屋に入ってから、照明を点けました」
「でも、暗がりの中、人が倒れているのがわかったのですよね」
「そうですね、わかったのですね。月明かりがさしていたのだと思います」
ぼくが尋問されているみたいですねと、陽人は笑って答えた。
「ダンテさんの部屋は一階ですから、カーテンを閉めていないのも変ですよね」
有江は、疑問を口にした。
「西藤さんは、月を見ていたのだと思います」
ダンテが言った。
車は、大きく左にカーブし、上信越自動車道に入る。
「かぐや姫の『月』ですか」
有江は、西藤さんのメモを思い出した。
「二千二十三年六月二日は、満月です。月明かりは、十分部屋の中を照らします。電気も点かず、カーテンもない部屋を寝袋で過ごしましたので、間違いありません」
ダンテは説明した。
「しかし、かぐや姫の『月』にしては時季が違いますね。かぐや姫が月に帰ったのは旧暦の八月十五日、今の九月、十月の中秋の名月です」
「そうですね」
ダンテは、愛永の指摘に口を閉ざした。
車は、
雪は積もっていないが、葉を落とした寒そうな山々が車窓に続く。
横川SAに入る。朝食の時間には遅く、昼食の時間には早いが、パーキングには多くの車が止まっている。
ダンテたちは、車を降りると一様に伸びをして、深呼吸をした。
ダンテと愛永は「峠の釜めし」、陽人と有江は「だるま弁当」を買い、飲食スペースに広げて遅めの朝食をとった。
食事を終え、愛永が運転手となり出発する。
「満月に秘密があるといっても、毎月、満月になりますからね。秘密にしては頻回ですね」
愛永は、運転しながら話した。
愛永の運転は、陽人と違って加速、速度とも申し分ない。運転しながら話をして欲しくないなと有江は思う。
「単なる満月ではないということですよね」
ダンテの口数が少ない。
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