第十八話 立科町への道程
外は、まだ薄暗い。
毎朝吠えられる北隣の飼い犬に今朝は吠えられなかった。寝ているのか、寒さで犬小屋から出てこられないのか、どちらにせよ、身構えていたので拍子抜けした。
有江は、白い息を吐きながら、冷え切った街並みを駅へと歩いた。あまりの空気の冷たさにいつもの街路樹も信号も尖って見えた。
駅に近づくにつれ、通勤者が増え始める。みんな競い合うように駅に向かって歩いている。
駅前ロータリーにバスはなく、白のミニバンタイプの車が一台停まっていた。
車から
「有江さん、おはようございます。寒いですから、さあ、早く乗ってください」
陽人は、助手席側に廻りドアを開けてくれた。
「アリポン、おはよう」
「有江さん、おはようございます」
後部座席には、
「おはようございます。ダンテさん、後ろの座席でいいのですか。ていうか、愛永さんは、ダンテさんが隣でいいのですか」
「私は平気です。ダンテ先生は助手席の方がいいみたいですが」
愛永は、そう言って、いたずら気に笑った。
「ぼくが後ろに座るように言ったのです。ダンテさん、一度は前に座ったのですが、勝手にナビとか操作するものだから、危なっかしくて」
運転席に乗り込みながら、陽人が言った。
「そういうことです」
ダンテは肩をすくめた。
五時五十五分、出発する。
いつも渋滞している道路も、朝の六時ならスムーズだ。環状八号線を北に進む。
「陽人さん、朝早くから付き合わせてしまってすみません」
「いや、平気です。毎朝、意思に反して元気ですから」
――判断に困る。
「
陽人は、さらりと言うが、ダンテがどこまで話して、陽人がどこまで信じているのか有江は気になった。
「西藤さんの身元は、警察でも調べているのですか」
「本署に頼んで照会してもらっただけです。行方不明者届は出ていなかったのですが、たしかに立科町には『西藤』姓が多いので、佐久警察署でも管内の交番に聞いてくれるそうです」
「パソコンひとつで全部調べられないのですか」
有江は、意外だった。
「役所に調べてもらうには、捜査事項照会という正式な手続きが必要ですからね。今回のケースは事件でもないので、聞いてまわるしかないのですよ」
「警察も地味な仕事ですよね」
愛永は、そう言って、後部座席でふむふむ頷いている。
目白通りから関越自動車道に入った。
新座料金所、所沢ICを過ぎたが、単調な景色は続いている。
陽人と愛永は、最近見た映画の話で盛り上がっている。有江もホラー映画のターンには、ここぞとばかりに話に入った。ダンテは、何も話さずに陽人の運転を凝視している。
道半ばには程遠いが、三芳PAで休憩する。
朝の内は
ダンテは、すでにぐったりしていた。
「ダンテ先生、ここで疲れていては、長野県まで辿り着きませんよ。これ飲んで元気出してください」
愛永が、人数分のコーヒーを買ってきてくれた。
「この先、藤岡JCTで上信越自動車道に入り、小諸ICで降ります。そこからは、三十分ほどですから、休みながらでも二時間三十分くらいでしょうか」
引き続き陽人が運転をしてPAを出る。
「西藤さんは、東京で何をしていたのでしょうね」
映画の話も出尽くしたところで、有江がつぶやいた。
「嘘の勤務先を書いたということは、名前も偽名なのですかね」
陽人が、今から立科町に行こうとしている理由のひとつを根本から揺るがすようなことを口にする。
「偽名なら、一般的な『斎藤』にしますよ。いや、もっとありふれた『鈴木』とか『佐藤』とかの苗字にしますね。勤務先を偽ったのは、アパートを借りやすくするためでしょう」
愛永が否定してくれた。
「お隣の山田さんは、西藤さんがアパートから出掛ける姿も見かけています。ただ、決まった時間というわけでもなかったそうです。顔を合わせれば挨拶は普通にしていて、努めて隠れようとしていたわけでもなさそうです」
今まで黙っていたダンテが口を開いた。
「有江さんにメールしたとおり『水洗』トイレのタンクの中には何も入っていませんでした。キッチンの棚や引き出し、押し入れの中にもなにも残っていませんでした。ただ、壁にはピンの刺し跡が多く残っています。引き抜いた跡がまだ新しく、西藤さんが何かを壁に貼ったものだと思われます。でも、それらしい飾り物やポスターなどはありません。警察で預かっているのでしょうか」
「いや、押し入れには寝具と洋服類があるだけでした。どこにも壁に貼れるような物はありませんでしたね。警察官になって、ぼくにとっては初めての『事件』ですから、よく憶えています。暗がりの中、人が倒れているのを見たときには『殺人事件』ではないかと、不謹慎にもちょっと期待しちゃいました」
陽人が運転しながら答える。
「
ダンテが大きな声を出した。
怒られたと思った陽人は「ちょっと思っただけですよ」と慌てて言い訳する。
「暗がりの中、西藤さんを見たのですね」
ダンテは、そう確認すると、パソコンを取り出し、それ以上なにも話さなくなった。
景色はひらけ、緑が多く見えるようになった。
「陽人巡査が、西藤さんのアパートに入ったのは、夜十時過ぎですよね」
愛永が、ダンテの代わりに話を続けた。
「山田さんから通報があったのが十時二十三分ですから、不動産屋さんに来てもらって、部屋に入ったのは十一時ころですかね」
「西藤さんは、明かりを点けていなかったのですね」
「そうです。部屋に入ってから、照明を点けました」
「でも、暗がりの中、人が倒れているのがわかったのですよね」
「そうですね、わかったのですね。月明かりが差していたのだと思います」
陽人は、ぼくが尋問されているみたいですねと笑って答えた。
「ダンテさんの部屋は一階ですから、カーテンを閉めないのも変ですよね」
有江は、疑問を口にした。
「西藤さんは『月』を見ていたのだと思います」
ダンテが言った。
車は、大きく左にカーブし、上信越自動車道に入る。
「かぐや姫の『月』ですか」
有江は、西藤さんのメモを思い出した。
「二千二十三年六月二日は、満月です。月明かりは、十分部屋の中を照らします。電気も点かず、カーテンもない部屋を寝袋で過ごしましたので、確認済みです」
ダンテは答える。
「しかし、かぐや姫の『月』にしては時季が違いますね。かぐや姫が月に帰ったのは旧暦の八月十五日、今の九月、十月の中秋の名月です」
「そうなのですよね」
ダンテは、愛永の指摘にあっさり後退する。
車は、
全員、朝食をとらずに出発しているので、横川SAで遅めの朝食をとる。ダンテと愛永は峠の釜めし、陽人と有江はだるま弁当を買い、飲食スペースで食べる。
陽人のだるま弁当の赤い顔を見てはしゃいでいたダンテが、なにかに気づいたのか、釜めしのうずらの卵を摘まんで言った。
「満月に秘密があるのでしょうね。私が日本に現れた日の夜も、満月でした」
ダンテは、釜を持ち帰りアパートで使いたいと言って、愛永の釜も手にしていた。色合いが気に入ったのなら、もっと使いやすい益子焼の器を買った方がよいのは後から気づくのだが、誰もが通る道だと思い、有江は黙っていた。
一時間弱休んで出発する。運転手は愛永に代わった。
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