第四十六話 神の企み(現世)

「クエン酸と重曹を混ぜると二酸化炭素が発生するから、地獄の底で反応させるのは危険だね」

 神楽は、通信記録を解析しながら言う。


 東京都内のテナントビルの地下三階に造られた日本宗教調世会の事務室では、冥界にいるダンテから「9COOLKA?」のメッセージが入り、「KUEN3JYUSO」と返信したばかりだ。

 次にどう出るべきか、全員が迷っていた。


「密閉された場所や窪地だと、二酸化炭素が充満して酸欠になるんだよ。二酸化炭素を消火剤とする不活性ガス消火設備の誤作動で時折事故があるじゃない。危険なんだよね。反応式全部『C6H8O7+3NaHCO3→Na3C6H5O7+3CO2+3H2O』を送っておこう。さすがにこれを見れば、二酸化炭素が発生するのはわかるでしょ。ちなみにNa3C6H5O7はクエン酸ナトリウムのことね」

「そんなことは知っていますよ」と言いたくても、言えない愛永だった。


「たくさんの文字を送っても大丈夫なのですか」

 陽人が心配して、神楽に尋ねた。

「そう、原因不明の遅延が発生しているからね。今回の通信に追跡コードを埋め込んで、障害箇所を突き止めようと思うんだ。どこかが問題かわかれば対処できそうだから、文字数が多かろうが少なかろうが一緒だと思うんだよね」

「神楽部長は、相変わらず適当ですね」

 船越川は、手元のキーボードを操作しながら、呆れたように言う。

「準備できました」

 神楽の注文に手早く応えたようだ。


「では、送りますよ」

「お願いします」

 その言葉を合図に船越川は、反応式を送信する。

 ヘルフォンの電源ランプは、緑色のまま点滅し送信を示していたが、ほどなく赤色の点滅に変わった。

 画面に「E3」と表示される。

「案の定、通信エラーだね」

 神楽部長は、自席に戻りコンピュータを操作し始めた。


「反応式は届いたのですか。届く前に壊れたのですか」

 愛永が確認する。

「届いているような、届いていないような」

 神楽はモニターを見ている。

「届いているけど、表示されていないね。ダンテさんの持つヘルフォンまでパケットは届いているけど、そこでエラーになっている。ということは、プロトコル解析の誤りか……難しいことしていないんだけどなあ」

 神楽は、両手を頭の上に載せ、全員に聞こえるように独り言を口にする。


 ヘルフォンの通信エラーで、ダンテ・有江との唯一の連絡手段も途絶えてしまった。


「ダンテ先生は、酸欠に気がつくでしょうか」

「そうですね、ダンテさんの時代の知識では難しいでしょうが、有江さんは料理が好きだから、仁廷戸さんも知っていたようにベーキング・パウダーは重曹で、生地が膨らむのは、二酸化炭素が発生するからだと知っているでしょう」

 常磐道は、愛永の心配を察して説明した。

「有江さんにパンケーキ作ってもらったことあります。ベーキング・パウダーを使っていましたよ」

 陽人が、嬉しそうに話す。


「ヘルフォンが直るまで、ぼくたちは何もできないのですかね」

 陽人は、ため息とともにつぶやいた。

「そうね……一体、神は何を考えているのだろう」

 愛永は、ずっと気になっている考えを口にする。

「通信の記録を見ると、ダンテ先生に冥界での目的が知らされたのは第九圏に着いてからじゃない。第一圏から一緒だった西藤さんは目的を知らされてなかったわけでしょ、おかしいじゃない」

「何がおかしいのですか」

「だって、ダンテ先生に冥界で何かして欲しいのだったら、来たらすぐに目的を伝えるよね」

「そうですね」

「コーキュートスに着いてから、ここを冷やせなんて頼まれても準備できないじゃない」

「そのとおりだと思います」

 陽人は、愛永の疑問に全面的に同意した。

 常磐道や船越川、エラーの原因を探している神楽も、ふたりの会話に耳を傾けている。


「神は、冥界に来たダンテ先生とアリッチを、どうしようか迷っていて、第九圏に着いてから『コーキュートスを冷やして』なんて、取って付けたような目的を伝えたのかもしれない」

「ダンテさんがこの街に現れたのは、コーキュートスの冷却化とは関係ないのでしょうかね」

 常磐道が、会話に入ってきた。

「関係は、あると思います。第九圏に着いたからといって、まったく意味のないことは頼まないでしょうし……そもそも、神自身がコーキュートスを冷やそうとしないのがおかしいですよね。なぜだろう」


 話しながら、愛永の思考は整理されていく。

「神はできない? 神が冷やしても意味がない?」

「神にできないことも、あるんですかね」

 陽人は、完全に聞き手に回った。

「対症療法でしかない……根本的な原因が他にある……氷を溶かす原因……地球温暖化」

 氷山が溶け崩れ落ちる映像が、愛永の頭の中で再生された。

「さすがの神も、地球規模の現世の環境変化を変えるのは、たいへんなのかも」


「ダンテさんは、地球温暖化を止める役割を担っているか、メッセンジャーですか」

 常磐道は話をまとめるが、愛永はすっきりしない。

「ダンテ先生ひとりに託すのには、荷が重過ぎます。先生には、冥界の記憶がありませんから、メッセンジャーとしても心許ないですよね。しっくりきません」


 愛永は、もう一度考え直す。


「私たちは、ダンテ先生がこの街に現れたのは、冥界にいる誰かの意志か、先生自身の意志によるものなので、冥界に戻れば自ずと目的がはっきりすると考えていました。しかし、『冷却化』が真の目的とは思えない。前提が違うのかもしれません」

「たしかに、私たち全員が、そう考えていました」

 常磐道は、頷いた。


「ダンテさんがこの街に現れる理由は、他にありますか」

 常磐道の問いに船越川が答える。

「現世の誰かが呼んだとか……いや、冥界にダンテさんがいたことは誰も知らないから、それはありませんね」

 答えるそばから誤りに気がついた船越川は、そのまま否定する。


 陽人も答える。

「事故などで、偶然来てしまったとかは、どうでしょう」

「それは、あるかもしれないね」

 つまらないけどと、愛永は付け加えた。


「冥界から追い出されたんじゃないの」

 プログラムリストを熱心にチェックしている神楽が、ぼそりと言った。

「それは、おもしろいですね。ありえない話でもないです」


 コーヒーを淹れながら、愛永は考える。

「ダンテ先生が、堕天使や悪魔にとって目障りな存在なら、現世に追いやられることは十分あるだろう。現に冷却作戦を実行しようとしている先生は、堕天使たちに目障りな存在だと思う。でも、それでは違和感ある神の対応の説明がつかない」


 カップになみなみに注いだコーヒーを慎重に運びながら、愛永はさらに考える。

「神が、冥界から先生を追いやる可能性は、あるのだろうか」

 ひとつの可能性として考える。

「ダンテ先生が、神にとって邪魔な存在になる場合と言い直してみる。先生がコーキュートスを冷却化しても、神にとっては邪魔なだけ……神が根本的に解決を図ろうとしている場合だ。神が現世の地球温暖化を止める。どうやって? 氷河期の再来? エネルギー源の消滅? それができるのなら、もうやっているだろう」

 可能性はないなと、愛永は思った。


「バグはないよ。あれば取り除いて解決なんだけどね」

 プログラムチェックを終えた神楽は、また大きな独り言を口にする。


 神楽の言葉を聞いて、愛永はひらめく。

「神は、冥界のバグであるルチーフェロを取り除けば、すべて解決するじゃない。どこに取り除く? もちろん、冥界ではない場所、現世だ。ルチーフェロを現世に送り込む。現世を支配させれば、ルチーフェロも満足して、冥界は安泰ではないか。唯一の可能性があった」

「神がルチーフェロを送り込むなんて、悪魔の所業ですね」

 陽人が言った。

 愛永の思考は、声になっていた。


 常磐道、船越川、神楽の三人にも考えを話す。

「そうだとすれば、神はダンテさんを、すぐに現世に戻してしまうのではありませんか」

 常磐道は、当然の疑問を口にした。

「ダンテ先生は、冥界での記憶がないから、神は様子をみていたのだと思います」

「その仮定が当たっていたら、冷却作戦は根本的な解決にならないから、ダンテさんと有江さんは危険なんじゃないの。陽人くんが神だったらどうする?」

 神楽に振られた陽人は答える。

「まず、作戦に失敗したら、ダンテさんと有江さんを、即、ルチーフェロともに現世に送り返しますね。成功したら、まあ『よくやった』と誉めておいて、ふたりを現世に戻した後に、ルチーフェロを送り込みます」


「そうだよね、ふたりが戻るとは限らないけど、ルチーフェロは来るよね」

 モニターを眺めながら、神楽は……

「あっ、これか! 原因がわかったよ!」

 神楽は、これまでで一番大きな独り言を口にした。


 通信エラーの原因がわかったよと神楽が説明を始める。

「このヘルフォンは、二台間の『量子もつれ』にある粒子の『非局所性』を利用して、粒子を観測しあって通信しているんだけど、未知のノイズに備えて、ふた組の粒子を同時に観測して誤りチェックしているんだ。それぞれのタイムスタンプを見ると、同時に観測しているはずなのに、わずかに一方が早かったり、遅かったりと『時間』が一定していない。だから、再観測を繰り返すから時間もかかるし、文字数が増えると時間の誤り幅も大きくなってエラーになったんだね」


「よくわかりませんが、直るのですか」

 愛永は尋ねる。

「そうだね、ふた組を同時に観測して誤りチェックするのではなく、それぞれの観測結果をマージすれば、再観測回数は減らせるだろうね。そう、素晴らしい、天才かも」

 神楽は、答えながら早速プログラムを直しているようだ。


「まずは、データクリアしてから、ひと組だけの送信モードにしてみよう」

 モニター上に、プログラムらしきリストが下から上へと高速で表示されている。

 コンピュータに接続されているヘルフォンの電源ランプが緑色に点灯した。

「やはり、天才かも」

 神楽は、自画自賛しながら不具合を解消したようだ。


「SET MONO」

 神楽は、改めてメッセージを送信した。

「西藤くんは、ヘルフォンに詳しいから、受信側もMONOモードに変更してくれるはずだよ。変更すれば、リモートでプログラムを書き換えられるね」

「これで、ダンテ先生とアーリエに危険を知らせることができますね」

 愛永は、一刻も早く、ひとつの可能性を、ふたりに知らせたかった。

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