ダンテが街にやってくる
ことぶき神楽
現世篇
第一章 登場
第一話 ダンテが現れる
人生の道半ばを過ぎ、正しき道を踏みはずした私が目を覚ましたとき、
空間が光った。
「危ない! いきなり出てこないでよ」
商店街の通りを駅に向かって歩いていた
そのまま、転ばずに持ちこたえるかと、ほっとしたのも束の間、最後の一歩が側溝のグレーチングを踏み抜き、右足のヒールは格子とがっちり嚙み合った。
前傾姿勢から一転、重心が後ろに移り、両肩を押さえつけられたように、有江は尻もちをついた。
ヒールは、荷重に耐えられず、へし折れた。
朝七時の路上に男が突然現れ、避けようとした女性が転んでも、誰も関心を向けることはない。
終日、歩行者専用になっているこの道の両側には、飲食店や携帯ショップ、コスメ店が軒を連ねているが、今の時間帯は、朝食メニューを販売する牛丼チェーン店以外は、シャッターを降ろしている。
人々は、狭い道を駅へと急いでいた。
有江は、スカートの裾を直し、道路に座ったまま周囲を見渡すが、彼らと視線が合うことはなかった。
有江は、振り返り、男を見る。
男は、朱色の布をまとっていた。
立ったまま、有江を見下ろし、手を出して助けるわけでもなく、投げ出されたバッグを拾うでもない。
身長は、百六十センチメートル半ばくらいだろう。有江と同じ百五十センチメートルの「昇龍飯店」の看板より、拳ひとつ高い。
植物を巻きつけた朱色の頭巾から覗かせる顔は、
有江は、パンプスを手に取り、
「あなた、そこにいなさいよ!」
男を一喝し、バッグを引き寄せ、スマホを取り出した。
今年の初詣に、かじかむ手からスマホを落としている有江は、何事もなかった画面を見てほっとする。
「おはようございます、編集部の
電話の保留中も、有江は男をにらみ続ける。
「部長、栃辺です。すみません、出勤途中に人とぶつかって、転んで……ええ、怪我はありませんが、ヒールが折れて……午前中の会議は、わたしを飛ばして明日に……はい、申し訳ありません」
有江は、都内の小さな出版社に勤めている。
今日の午前中は編集会議があり、有江は担当作家の新作をプレゼンする予定になっている。
今朝、有江はグレーのスーツ姿でアパートを出た。自分でも童顔だと思うし、ロングにすると巻き毛になってしまう髪は、万年ショートカットなので一層幼く見える。スーツ姿は有江の戦闘服だ。
しかし、踵のない靴では箔はつかないし、会議に間に合いそうにもない。編集部長に事情を説明し、明日に延期してもらった。
有江は立ち上がり、男に告げる。
「警察を呼びます」
スマホに手を掛けた。
いかにも怪しげな男を相手に、一刻も早く第三者を入れたかった。
「そ、それは、困ります」
男は
「どうか、許してください。フィレンチェに連れ戻されると、私は
有江は、男の言葉を理解するのに時間がかかった。
フィレンチェ? 火炙り?
男は、目の前に突然現れた。
毎朝、グレーチングに
男は、目の前に突然現れた。
その男が、警察に捕まれば、フィレンツェに連れ戻され、火炙りにされると言っている。「フレンテ」の聞き間違いだろうか。
有江は、男と一定の距離を保ちながら、いつでも助けを求められるよう、片手でスマホのロックを解除する。
大きく息をつき、大声を出す準備も整えた。
「壊れた靴は弁償します。ですから、警察には突き出さないでください」
有江は、考える。
身なりからして、朱色の男が疑わしいのは、明らかだ。
しかし、有江が警察に「男が突然現れた」と説明して、信じてもらえるだろうか。有江がそう話さないにしても、男が「私は突然現れた」と話したとき、なんて答えたらよいのだろう。
有江は答えを出せず、通報できずにいた。
「お金ならあります」
有江は、このときになって初めて、男が日本語で話していることに気がついた。
「あなた、誰なの?」
日本語を使う男に、少しばかり気が緩む。
許してもらえたと思ったのか、男は安堵した表情で答えた。
「私は、ダンテ。ダンテ・アリギエーリと申します」
有江も文学部卒の端くれ、イタリア・ルネッサンス初期のダンテ・アリギエーリくらいは知っている。
自称ダンテは、コスプレのつもりなのか、服装を似せてきているが、顔つきはそれほどでもない。鼻は大きめではあるが、ダンテの特徴とも言える「かぎ鼻」ではない。眉は八の字に下がり、目は垂れ気味、顔の輪郭は丸みを帯びている。
肖像画や大理石像で見る凄みは、まったく感じられない。穏やかな顔立ちは、朱色の布をまとっていなければ、ダンテには見えないだろう。
「で、自称ダンテさん、弁償すると言ったわよね」
「もちろんです」
自称ダンテは、ここに来る前にいくらかのお金を持って部屋を出たと話す。
「ここに三リブラ九ソリデゥス六デナリあります」
朱色の布から突き出された手には、布袋が握られている。
袋には、金や銀に輝くボタン大の硬貨が入っていた。
「その三リブレなんとかというのが、お金ですか。ここは日本ですよ。そんな外国のお金は使えません」
「ここは『にほん』という国なのですか」
「そう、お日さまの本と書いて『日本』。あなた、自分のいる場所がどこかわからないの?」
「私は……つい先ほどまで、ヴェローナにいました」
ヴェローナは『ロミオとジュリエット』の舞台としても有名なイタリア北部の都市だ。
「つい先ほどって、瞬間移動してきたと言いたいわけ?」
「そのようです。昼食を食べ終え、シニョーリ広場に行こうと私が部屋を出たとき、雷鳴のような音が響き渡り、目の前が真っ暗になりました。気がついたときには、ここに立っていたのです」
有江は、腕時計を見せ、今は朝の八時三分前であることを伝えた。自称ダンテは、目を丸くして腕時計を見ている。
「そうですか……ということは、今日は五月三十日でもない?」
「今日は、二千二十四年一月二十四日です」
「わ、私が部屋を出た五月三十日は、千三百十三年です……」
自称ダンテは、混乱した様子で周囲を見回している。
新手の詐欺なのだろうか。
「なぜ、日本語を話せるの?」
有江は、この茶番を早く終わらせたかった。
「私に言われましても……」
自称ダンテは、言葉に詰まっている。
「私か、あなたか、どちらかが実体のない霊魂や幻影なのかもしれません。意識下の会話なら、言語に
自称ダンテは、答えを探すかのように、慎重に言葉を選んでいる。
「わたしの実体がないわけないのだから、あなたが霊魂か幻影ってことじゃない」
有江の言葉に、自称ダンテは眉をひそめた。
そもそも、朱色の布をまとった男が突然現れて、騒ぎにならないのもおかしい。街の人々には、この男が見えていないのかもしれない。そう考えた方が、辻褄は合う。
「落ち着いて話す必要がありますね」
目の前の自称ダンテは、果たして霊魂か幻影なのか。
有江は、自分に言い聞かせるように言った。
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