第十九話 夢か現か冥界か
今朝、有江は始業間際の時刻に出社した。
昨夜は、帰宅してからキャンプ用品を検索していて、夜更かししてしまった。眠りについたのは、草木も眠る
キャンプ用品を調べながら、有江は、小学生のころに家族で出掛けたキャンプを思い出した。
整備されたキャンプ場に、父が苦労してテントを張り、母が下ごしらえしたバーベキューを食べた。炭が赤々と燃える灯りと、脇に立てられたランタンが照らす範囲はせまく、周囲はすぐに闇に溶け込んでいた。時折、闇がガサガサと揺れた。
食事を終えると、弟とすぐにテントに入ってシュラフにくるまり、父が炭火の前で缶ビールを飲む姿を眺めていた。
雨には降られなかったが、山の向こうから遠雷の響きが聞こえてくる。楽しくて、怖くて、ドキドキした不思議な気持ちだった。
その夜も満月だったのだろうか。
有江は、憶えていなかった。
愛永は、雑誌を読んでいる。始業時間はとうに過ぎているが、資料収集と言えば、ある程度は許される。
有江があいさつすると、愛永はキャンプ雑誌を机に置いた。
「まだ二か月あるけれど、一泊するから、部長には話しておいた方がいいよね」
「そうですね。もしかして、また出張で行くつもりなのですか」
「もちろんじゃない」
愛永は、有江を手招きし、部長の席へと誘った。
部長も雑誌で情報収集している。釣りの雑誌だ。
「部長、まだ先のことなのですが、出張のご相談があります」
愛永は、ひとまず丁寧に話を切り出す。
「五月の二十二日水曜日なのですが、山梨県の月見岩に行かせていただきたいのです。先日の長野県の続きなので、同じメンバーで一泊二日でお願いします」
「ダンテ先生の取材ですよね。謎解きストーリーは進んだのですか」
常磐道部長は、謎の組織の正体や、その組織がゲートの発見にどう絡むのか、展開が気になっていると話す。
有江は、昨夜の謎解きの内容を部長に説明した。
部長は、パソコンで謎をひとつひとつ検索しながら聞いている。現実の場所や現象に即したストーリー展開なので、説得力が増しますねと感心している。
部長は、最後に導き出された『月見岩』にしきりに頷いていた。
「わかりました、出張を認めましょう。ただし、条件があります」
常磐道部長は、釣りの雑誌を引き出しに入れ、言った。
「私も一緒に行きます」
有江は愛永を見るが、愛永は部長を見たまま、即答する。
「ぜひ、同行してください」
席に戻った有江は、愛永に尋ねる。
「部長は、取材旅行だと勘違いしていますよ。ダンテさんの秘密を説明しても信じてもらえないだろうし、いちいち説明が面倒ではないのですか」
「隠さずとも、部長は勝手にロールプレイしていると思ってくれるよ。それよりも、我が社の金庫番である総務部長も一目置く常磐道部長が一緒に行く出張なら、経費請求できる幅も広がると思わない? キャンプ用品を調べてみたけれど、結構な値段するよ」
たしかに、昨夜調べたキャンプ用品は高かった。少しでも経費で落とせるのであれば、とても助かる。
「そうですね。部長に少しずつキャンプ用品の話をしていきましょう」
有江は、愛永の作戦に乗ることにした。
有江は、打ち合わせ室で執筆しているダンテに報告する。
「それは結構なことです。常磐道さんが一緒なら楽しくなりますね」
最近、ダンテはホールから打ち合わせ室に拠点を移し、自分の執務スペースにしている。
「ちょうどよかった、有江さん、どうぞ座ってください」
有江は、ダンテの正面に座った。
「お願いがあります」
ダンテは、改まって言った。
「銀行口座の残高が寂しくなってきました。キャンプ用品を物色していたのですが、どうも足りそうにありません。金貨の両替に一緒に行ってもらいたいのです」
有江名義のダンテの口座には、五十万円と少しの額が残っていた。ここからキャンプ用品一式を買ってしまっては、たしかに家賃の引き落としに生活費の出金と重なれば、心配となるだろう。
ダンテが現れて二か月、その間で六十万円を超える支出は使い過ぎだと注意して、午後にでもコインショップに行くことにする。
会社には申し訳ないが、ダンテとの打ち合わせと称して、有江は外に出た。
向かうは、前回と同じ「寿コイン」だ。午前中に電話を入れて用件は伝えてある。店主は「あのフィオリーノ金貨の方ですな」とすぐ思い出してくれた。ぜひ買い取らせていただきますとも言っていたので、待ち時間も少なくて済むだろう。
ふたりは、電車に乗る。
「かなりの謎が解けた気がしますが、まだまだ、すっきりしないこともありますね」
有江は、ダンテの考えを聞いてみたかった。
「なぜ、ダンテさんは、日本に現れたのでしょう」
私に聞かれても困りますと答えるダンテを有江は想像していたが、そうではなかった。
「理由は、あるはずです」
自信ありげに、ダンテは答える。
「むしろ、理由あって私自身が『日本』を選んだ気もするのです。しかし、選んだ記憶はないのです」
――ダンテが、おかしくなった。
有江があっけに取られている中、ダンテは話を続ける。
「西藤さんのメモの謎を解くにあたって、私は様々な仮説を立てて検証してきました。これまで仮説に大きな誤りはなかったと思っています。その中で『私は時空を超越する世界を通ってきた』と一連のできごとの根本となる仮説を立てています」
有江は、気がついた。
「ダンテさんの記憶にない仮説なのですね」
「そうなのです。私自身が憶えていないのですから、そんなことはないと一蹴することも簡単なのですが、どうにも捨てきれないのです。記憶にないだけで、それは『あった』ような気がするのです」
「記憶喪失なのでしょうか」
「そもそも……」
ダンテは、少し言い淀んだ。
「私が書いた『神曲』の情景も、全くの創作ではなく、実際のできごとだったような気がしてならないのです」
「ダンテさんは、実際に『地獄』『煉獄』『天国』を巡ったということですか」
「そうです。実際にあのような恐ろしくも美しい場面を目の当たりにしたら、絶対に忘れることはないと思うのですが、記憶にはありません。しかし、感じるのです。ここで『神曲』を改めて読んでいる間も、夢か
「『時空を超越する世界』は『冥界』なのかもしれませんね」
「冥界ならば、安易にゲートを越えるのは危険なのでしょう。しかし、元の世界に戻るためには、越えなければならないとも思うのです」
ダンテは、不安げに話した。
ふたりは、電車を乗り換える。
「もうひとつ、聞きたいことがあります」
なんでしょうとダンテ。
「なぜ、ダンテさんは知り得ないことが、わかるのですか。西藤さんのことだけでなく、妙なことを知っていたりします。先ほどの『夢か現か』という言葉も外国の方には、しかも、七百年前の方には、出てこない表現です。そのくせ、全く知らないことも多く、偏りが極端な気がします」
「それについては、ですね」
ダンテは、腕を組んだ。
「自分でも、まったくわかりません」
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