第三十七話 美肌の湯に果実を浮かべて

「メガイラ、アーレクトー、ティーシポネーの復讐の女神たちが現れました」

 ダンテが指さす塔の頂には、裸の女性三人が立っている。

 女性たちは、大きな黒い翼を持ち、大小の蛇を髪のように生やし、腰には大蛇を巻いている。その裸体は、血で赤く染まっている。

 有江は「女神たち」と呼んだダンテの顔を見る。


「恐ろしくも、惹かれる自分が怖いですね」

 なまめかしく身体をくねらせる魔女たちを見ながら、西藤さんが言う。

 西藤さんの顔を見る。


「さあ、来ますよ」

 ダンテがそう言ったとき、強い風が吹き、沼のもやを吹き払った。

 ひらけた視界の先から、ひとりの男が地響きとも聞こえる音を轟かせながら、濁った水面に触れることなく、白い衣服をなびかせ走ってくる。

 いや、白い翼を羽ばたかせ飛んできた。

「いかにも、天使ですね」

 ダンテは、つぶやいた。


 天使は、有江たちに一瞥いちべつもくれずに目の前をすぎ、門の前に降りて錠前を開ける。

「さあ、あの天使に何をするべきか聞き出しますか」

 西藤さんは、天使の方に向かっている。

 有江たちも、後を追って歩き出した。


 赤い服と白い服が並ぶ様は、漫才コンビのようだ。しかも、白い方は、羽が生えている。

「それじゃ、君は何も知らないって言うの?」

「そんな怖い顔で怒鳴らなくてもいいじゃないですか。ぼくは、神さんに『鍵開けてきて』と頼まれただけなんですから」

「いや、でもね君、みんな期待しているよ。そんな立派な羽を生やして現れたら、お告げとか、ひと言あると思うじゃない。何もないの?」

「さっきから説明しているとおりで、何もありませんよ。もう、勘弁してください」

 天使は、半べそをかいている。

「じゃあ、戻ったら神さんとやらに『早いとこ説明しに来るよう』言っといてよ、頼んだよ」

「わかりました」

「はい、ぐずぐずしない」

 天使は、急ぎ戻っていった。


 西藤さんの余りの剣幕に有江たちは驚いたが、それ以上に城壁の上にとまる悪魔たちは怖れをなしたようだ。あれほどいた悪魔たちの姿が、今は見えない。

「まったく期待外れでした。すみません」

「いや、西藤さんのせいではありませんから、気になさらずに」

 ダンテは、苦笑いしながら慰めた。


 鍵が外された門を開ける。

 城内からの熱風が顔に当たり、三人は思わず目を閉じた。

 湿っていたモフ狼の毛も一気にブローされ、なおフワフワとなった。


 第六の圏は、至る所に墓が掘られ、そのひとつひとつから炎が上がっている。

「ここは、墓に入れられた魂たちが、火炙りにされている異端者の地獄ですね。あっ、わかりましたよ」

 西藤さんは、何かひらめいたようだ。

「ここは、焼けただれた魂たちが出てくるでしょ。きっと、彼らは、中折れ帽をかぶって、赤と緑の横縞のセーターを着て、鉄の爪を付けた姿で現れるんじゃないかな。フレディくんが出てくるんじゃないかな」

 当たりかもしれない。その映画は、有江も好きなシリーズのひとつだ。

 そのとき、右奥の墓から出ていた鉄の爪が、音もなく引っ込められるのを有江は見逃さなかった。


 三人は、しばらく留まって見ていたが、チロチロと炎が見えるだけで、何も現れなかった。

 その間に、ダンテは「6」と送信する。


 熱風をよけながら、再び歩き始めた。


 墓からずいぶんと離れ、崖の際にたどり着く。

 岩場に牛頭の怪物ミーノータウロスが、横になっていた。

「俺は、ここで昼寝をしているだけだ。神から遠い場所にいる俺に、神の意志などわかるはずもない。面倒ごとはごめんだ。おとなしく、さっさと行ってくれ」

 早くも、天使に絡んだ西藤さんの噂が、ミーノータウロスにも届いているのだろうか。

「食べてすぐ寝ると牛になるとは、このことですね」

 黙っていればいいものを、西藤さんは余計なことを言う。

 それはおもしろいですねと、ダンテは相槌を打つ。

 それでも無視し続けてくれたミーノータウロスに感謝しつつ、有江は、横を通り過ぎた。


 岩場を降りて、第七の圏に着く。

 ここでは、暴力をふるった者が、その対象である、他人、自分、神に応じて三つのに分けられている。


 第一の環は、他人に暴力をふるった者だ。

 辺り一面、湯気が立ち込め、歩く道には白い結晶が付着している。

 臭気はなく、呼吸が苦しくなることはないので、まだ歩きやすい。

 足元だけに気をつけ、道を踏み外さなければ、難なく通り抜けられそうだ。

 一陣の風が、視界をさえぎっていた湯気を吹き飛ばし、環の全景が姿を現す。

 魂たちは、煮えたぎる湯に入れられていた。


 沼の底から湧く温泉は、ぐつぐつと煮えたぎっていて、その成分による乳化と相まって、魂たちの皮膚は溶けだしている。

「超強力美肌の湯って感じですかね」

 西村さんは、また茶化す。


 魂たちが苦しさのあまり熱湯から顏を出すと、周囲にいる半人半馬のケンタウロスたちが一斉に弓矢で狙い撃つ。

 弓矢を射るケンタウロスたちは、例外なく美男子だった。

「二枚目なのは、有江さんの趣味でしょうか」

 気がついたダンテが、口にする。

「親方ケイローンと交渉して、このイケメンに乗って地獄温泉を越えましょう」

 西藤さんも、気がついているようだ。


 モフ狼を抱いてイケメンのケンタウロスにまたがり、浅瀬を渡っていく。有江には天国に思えた。

 傍らには、熱さに耐えきれず湯から出した身体に矢を射ち込まれ、血しぶきをあげながら溶けた肉片が剥がれ落ちていく魂がいるが、有江には天国に思えた。


 湯を渡り切り、名残惜しいがケンタウロスたちと別れる。

 ダンテは「71」と送信する。



 第二の環は、ダンテの時代には「自分に暴力をふるう」つまり「自殺した者」が罰を受けていたが、有江の生きる時代が反映されたこの世界では、原因をつくった者、追い込んだ者、救わなかった者たちが罰を受けている。

 人間の顔はしているが、胴体は羽毛に覆われ、翼を持つハルピュイアは、上空を旋回している。

 有江たちが立つ岩場から一段低い場所には、赤や白の花を咲かせたバラや、黄色の果実をたわわに実らせたシトロン、直径三センチほどの丸い実をつけたカラタチ、サンショウやタラノキなど、棘がある植物という植物が生い茂っている。

 魂たちは、茨の藪をハルピュイアに追われ、追いつかれた者は、かぎ爪で鷲づかみにされている。

 逃げようとして身体中に棘が刺さり、つかまれては皮膚が裂け、噴き出した鮮血が辺り一面をより一層鮮やかにしていく。


「究極の痛みを求めているようですね」

 有江はハッとする。

「ダンテさんの今の言葉が、パズルボックスを開けました」

 突如として、背後の岩山が割れ始めた。割れた奥から眩い光がさしている。

 光の中から、魔導士が現れた。


 魔導士は、黒のレザーコートを着ている。

 しかし、なんといっても目を引くのは、白い顔に等間隔に打ち込まれたピンである。

 魔導士は口を開く。

「私を呼んだのは誰だ。その者に究極の快楽を与えよう」


 そのとき、何を思ったのか、西藤さんは、魔導士めがけてシトロンを投げつけた。


 よもや、果実を投げつけられるとは思っていなかった魔導士は、よけることもできず、顔面でキャッチしてしまう。

 シトロンは、ピンに刺さり、シトロンに押されたピンは顔面に食い込んだ。

 魔導士は、その場にうずくまり、ウンウンうなっている。

 痛そうだ。


「次に進みましょう」

 西藤さんは、またもや先に歩いていってしまう。

 うなる魔導士を横目に、有江たちも進んだ。


 ダンテは「72」と送信する。

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