第三章 地獄への門 

第二十七話 ダンテは就職する

   *****


 神曲リノベーション・地獄篇(第八歌)


 話は続く。

 高い塔の下に着くかなり前に、塔の頂に炎がふたつ灯されると、遥か遠くで別の炎が合図を返すのをダンテたちは目にした。

 ダンテは、知をたたえた大海というべきウェルギリウスに尋ねる。

「今の灯りは、何を意味するのでしょうか。合図を交わしたのは何者で、遠くの火は何を答えているのでしょう」

「沼を覆う靄が隠さなければ、合図を送った者が、濁った水の彼方で待っているのが、あなたにも判るはずです」

 弓から放たれた矢であっても、これほど早く空を切ることはないであろう。ダンテは、小さな船が水面をすべるように向かってくるのを目にした。

 船を操る男は叫んだ。

「悪しき魂よ、おまえは、既に我が手中にある」

「プレギュアースよ、今度ばかりはわめいても無駄です」

 ウェルギリウスが言った。

   ~

 全文は、次のリンクからお読みいただけます。

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   ~

 ひとり外に残されたウェルギリウスは。足取り重く引き返してくる。目を伏せ、眉をひそめ、溜息を吐いている。

「この苦難の都に私が入ることを拒む者がいるようです。私が心痛めるようなことがあっても、決して狼狽えないでください。いかなる者が城の中で守りを固めようとも、私はこの闘いに必ずや勝ちます。彼らの思い上がりは、今に始まったものではありません。以前にも地獄の門に閂を掛けたことがありますが、今は門には何もなく開いたままになっています」

 ダンテは、地獄の門を思い出した。

 ウェルギリウスは話を続ける。

「今にも、あなたが目にした死を告げる碑銘が刻まれた門を通り、斜面を降り、圏から圏へと案内もなく向かってこられる方がいる。その方の力でこの都も私たちに開かれることでしょう」


   *****


「最近、謎解きに夢中で『神曲リノベーション・地獄篇』の更新が滞りがちですね。しかも、前回の第七歌は、校閲なしにアップしたりして、真剣みが足らないのではないですか」

 久々にダンテから共有されたファイルを見ながら、有江ありえは不満げに言った。

「静岡県や長野県に出掛けて、リノベーションを後回しにしてしまいましたからね。最近は、コツが掴めてきたので、校閲がなくても問題ないと思ったのです」

「いやいや、冒頭の『パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ』が、呪文にしては可愛すぎだったり、女神フォルトゥーナの説明が長くてわかりにくかったり、他にも気になるところはあるのですが……もう公開してしまったので、このままとしましょう」

 有江のぶっきらぼうな物言いに、ダンテは渋い顔をしている。


「では、今回の第八歌です。冒頭の『話は続く』は、完全に脚韻合わせのように見えますが、どうなんですか」

「まあ、そう怒らないでください。事実、そうであって、削るのは簡単なのですが、『神曲』にこのような面白い地の文があるということを、読んでいない人たちに知ってもらうのも大切だと思うのです」

 たしかに『神曲』のお堅い文学作品のイメージを振り払うよいアイデアではあるかもしれない。有江は語気を弱め「わかりました」と答えた。


「ウェルギリウスさんは、プレギュアースに『今度ばかりはわめいても無駄です』と言っていますが、以前の場面が説明されていないので、なんのことかわかりません」

「簡単に言うと、プレギュアースはギリシャ神話に登場する神なのですが、戦闘好きの乱暴者なので、ウェルギリウスは、彼の叙事詩『アエネーイス』の中で、プレギュアースが冥府で罰を受ける姿を描いたのです」

「理解するのには、ハードルが高いですね」

「そうでしょうか、常識の範疇はんちゅうだと思っていました」


「泥の中から現れた男は『フィリッポ・アルジェンティ』と呼ばれていますが、誰なのでしょう」

「フィレンチェの騎士です」

 有江は、検索して調べる。

「ジョヴァンニ・ボッカチオの『デカメロン』にも登場するのですね。ディマーリ家の出身で、黒派の騎士ですか。ダンテさんは、たしか白派でしたよね。私的な恨みが強過ぎませんか」

「小説なんて、そんなものですよ」

 ダンテは、肩をすくめる。



「ところで、日本宗教調世会の件なのですが……」

 校閲はこれくらいにしてと勝手にダンテが話題を変えてきた。

「昨日、事務所に行ってみました」

 有江も、気にしていないと言えば噓になる。ダンテの話をさえぎることなく聞いた。

「午後二時に訪ねたのですが、やはり、事務所の明かりは消えていてドアは鍵が掛かっていました。なんとも不思議な法人です。そこで、名刺の番号に電話してみたのです」

「つながったのですか」

船越川ふなこしがわさんが電話に出ました」

「何を話したのですか」

 ダンテは当たり前のようにさらりと話すが、用事もなく電話しても怪しまれるだけだろう。気の利いた嘘がダンテにつけたのか、有江は心配になった。

西藤さいとうさんのことを聞いても、教えてはくれないだろうと思ったので、日本宗教調世会に勤めたいとお願いしてみました」

「また突拍子もないことを話しましたね」

 さすがにそれはないだろうと有江は思う。冗談にもほどがある。


「明日、面接に行ってきます」

 ダンテは、真顔で言った。



 ダンテは、今日午前十時からの日本宗教調世会の面接に行っている。

 有江は、デスクでパソコンを開いてはいるが、面接結果が気になって校正作業はまったく進んでいない。

 九時四十分のダンテからのメールによると、理事長と調査員一名が面接官となると船越川さんから説明を受けたそうだ。

 十一時十五分にダンテからのメールが入る。

「採用されました」

 ひと言だけ書いてあった。

 身分証明書がないダンテが勤められるのだろうか。素朴な疑問は解決することなく有江の頭の中を支配した。

 有江は更に仕事が手につかなくなる。


 午後三時三十三分、ダンテが会社に現れた。

「採用されたというのは本当なのですか」

 有江は、ダンテの顔を見るなり確認する。

「三十分ほどの面接で簡単な質問をされて、三十分待っていたら『採用』と言われました。自分でもびっくりですよ」

「その簡単な質問の内容が想像できないのですが、何を聞かれたのですか」

「私の宗教観とか、興味ある宗教行事とか聞かれましたね。何も難しいことは聞かれませんでしたよ」

「身分証明書がないことは話したのですか」

「もちろん、一番初めに正直に話しました。そもそも、採用されるとは思っていませんでしたから、隠す必要もありませんしね。マイナンバー取得の手続きは船越川さんが手伝ってくれるそうです」

 有江は、半信半疑ながらダンテの採用条件を聞いて驚いた。基本給十八万円に調査費用が実費で支給されるそうだ。

 これで、晴れて生活資金の目途が立ちましたとダンテは喜んでいる。

「午後には、私の調査研究事項と締切期限等の説明がありました。調査研究は、ふたり一組で行うそうですが、他の調査員は既に始めているので、私は船越川さんと組むことになりました。好都合ですね」

「調査をしながら、法人の調査をするのもいいのですが、『神曲』のリノベーションも忘れないでくださいね」

 ダンテが就職できたことは、有江も素直に喜んだ。

「ところで、何を調査研究するのですか」


「宗教における『地獄』の意味について、調べます」

 ダンテの眼がキラリと光った。

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