第二十一話 ダンテは就職する

「最近、謎解きに夢中で『神曲リノベーション・地獄篇』の更新が滞りがちですね。しかも、前回の第七歌は、校閲なしにアップしたりして、真剣みが足りないのではありませんか」

 久々にダンテから共有されたファイルを見ながら、有江は不満げに言った。


「静岡県や長野県に出掛けていて、改稿を後回しにしていましたからね。最近は、コツがつかめてきたので、校閲がなくても問題ないと思ったのです」

「いやいや、冒頭の『パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ』が、悪魔を賛辞する呪文にしては可愛過ぎだったり、女神フォルトゥーナの説明が長くてわかり難かったり、他にも気になるところはあるのですが……もう公開してしまったので、仕方ありませんね」

 有江のぶっきらぼうな物言いに、ダンテは渋い顔をしている。


「ところで、日本宗教調世会の件なのですが……」

 校閲はこれくらいにしてと、ダンテは勝手に話題を変えてきた。

「昨日、事務所に行ってみました」

 有江も、気にしていないと言えば噓になる。ダンテの話をさえぎることなく聞いた。

「午後二時に訪ねたのですが、やはり、事務所の明かりは消えていました。なんとも不思議な団体です。そこで、名刺の番号に電話してみたのです」

「つながったのですか」

「船越川さんが、電話に出ました」

 用事もなく電話しても怪しまれるだけだろう。気の利いた嘘がダンテにつけたのか。


「日本宗教調世会に勤めたいと、お願いしてみました」

「また突拍子もないことを言い出しましたね」

 さすがに、それはないだろうと有江は思った。冗談にもほどがある。


「明日、面接に行ってきます」

 ダンテは、真顔だった。



 ダンテは、午前十時からの日本宗教調世会の面接に出掛けている。

 有江は、デスクでパソコンを開いてはいるが、結果が気になって校正作業に身が入らない。

 午前九時四十分のダンテからのメールによると、調査員二名が面接官になるそうだ。

 午前十一時十五分にメールが入る。

「採用」

 ひと言だけ書いてあった。


 まさかと思い何度も確認するが、間違いない。

 身分証明書を持たないダンテが勤められるのだろうか。採用となればなったで、素朴な疑問は解決することなく、頭の中を支配した。

 有江は、さらに仕事が手につかなくなる。


 午後三時三十分、ダンテが会社に現れた。

「採用されたというのは本当なのですか」

 有江は、ダンテの顔を見るなり確認する。

「三十分ほどの面接で簡単な質問があって、三十分待っていたら『採用』と言われました。自分でもびっくりですよ」

「身分証明書がないことは、話したのですか」

「もちろん、正直に初めに話しました。そもそも、採用されるとは思ってもいませんでしたから、隠す必要もありません。マイナンバー取得の手続きは、船越川さんが手伝ってくれるそうです」

 有江は、半信半疑ながら採用条件を聞いて驚いた。基本給十八万円に調査費用が実費で支給されるそうだ。

 これで生活資金の目途が立ちましたと、ダンテは喜んでいる。



 ダンテが就職するにあたって、やはり、身分証明書もなく、自分名義の銀行口座を持っていないのは、雇い主としても困るらしい。それはそうだろう。

 日本宗教調世会の船越川が、有江名義の銀行口座にダンテの給料を振り込むための申立書やら、委任状やら、承諾書やらを用意して、梶沢出版に来ることになった。

 他の場所で手続きを取ればよかったのだが、ダンテは梶沢出版を我が社のように案内し、昨夜、有江の耳に入ったときには、何もかもが決まった後だった。

 しかも、約束の日時は、今日の午前十一時。

 あと一時間しかない。


 愛永には朝のうちに事情を話をしてある。

 朝から会社をうろついているダンテにも、余計なことは話さないよう釘を刺した。


 問題は、常磐道部長への説明だ。

 部長は、日本宗教調世会は、ダンテが書く小説上の法人であり、敵対する謎の組織だと思っている。血を流すことも厭わない組織だとさえ思っている。

 その組織にダンテが勤めることになったというのも、あまりにも嘘くさい。いや、本当なのだが、嘘くさい。

 愛永とも相談し「組織のモデルとした財団が、取材に応じてくれた」と説明することとした。これとて嘘くさいが、やむを得ない。


 有江は、部長に説明した。

「……というわけで、今日の十一時に、来社してくださることになったのです」

「それは、ありがたいですね。謎の法人を、悪く書きにくくなるデメリットはありますが、真実味が増すメリットを優先させた方がよいと、私も思いますよ。小説では組織名を変えた方がよいですね」

 有江の説明に納得したようだ。

「間に合うのなら、彼女にケーキでも用意して差しあげたらどうですか。経費で落としますよ」

 部長の提案に乗り、いちごのショートケーキを調達する。もちろん、自分たちの分も含めて五個買ってきた。


 午前十一時、エレベータのガタンという音と共に、船越川の姿が見えた。

 ボロなエレベータが、恥ずかしい。


 すぐに打ち合わせ室に案内しようと有江は待ち構えていたのだが、どこにいたのか、部長がひと足早く顔を出す。

「これは、わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、押しかけたようで申し訳ありません。私、公益財団法人日本宗教調世会の船越川と申します」

「梶沢出版の常磐道です。さあ、あちらの部屋にどうぞ。今、ケーキを用意させますから、ごゆっくりしていってください」

「お構いなく」

 有江は、遠慮する船越川を部長から引き離し、打ち合わせ室に案内した。

 なぜ、取材に応じる側が「押しかけたよう」なのか、不自然な会話ではあったが、部長は気にしていないようだ。


「船越川さん、こんにちは」

 ダンテは、正面の椅子を船越川に勧める。

 有江は、テーブルを回り込みダンテの隣に座り、自己紹介をした。

「ダンテさんと一緒にいらした方が、栃辺さんなのですね」

「はい。理由わけあって、ダンテさんの担当編集者として、住まいから通帳までいろいろと関わっていまして、ご迷惑お掛けします」

「そんな、迷惑だなんて。今までオカルトチックだと敬遠されていた死後の世界、とりわけ『地獄』に関する調査研究については、財団としても行うべきだと思っていたところです。ダンテさんの熱弁には、心動かされるものがありました。こちらから、ぜひ、お願いしたいと思ったのですよ」

 ダンテの説明とは、いささか違いがあるようだが、まあいいだろう。肝心なのは、この手続きをクリアして、ダンテを日本宗教調世会の内部に送り込むことだ。その上でダンテが自立してくれれば、なおよい。


「では、ダンテさんには、こちらの申立書と委任状に記入をお願いします。栃辺さんには、こちらの承諾書と給与振込依頼書にの記入をお願いします」

 船越川は、バッグから書類を取り出しながら説明した。


 愛永が、ケーキとお茶を持って入ってきた。船越川の後姿を凝視している。その眼差しは、いかにもあなたを疑っていますと言わんばかりの鋭さだ。船越川が振り返り、視線が合うすんでのところで普段の目つきに戻った。

「どうぞ」

 愛永は、お茶とケーキを置くと部屋を出ていった。


 ケーキは大好物なのですよと、船越川は喜んでいる。

 ダンテと有江も、ケーキを食べながら書類に記入し、船越川に渡す。手続きはすぐに終わるかと思いきや、期待を裏切るように次から次へとバッグから書類が出てくる。


 ダンテは七通、有江は五通の書類を書き終えた。

「手続きを進めますね。ダンテさんの最初の打ち合わせは、明後日の朝九時から事務所で行いますので、忘れないで来てください」

 ごちそうさまでしたと、船越川は席を立つ。


 ダンテと有江は、エレベータホールまで見送りにいく。

 様子に気づいた愛永が、顔を出した。

 部長は、いないようだ。

「部長さんにも、よろしくお伝えください」

 船越川は、エレベータの中に消えた。



「彼女、怪しいね」

 ケーキ皿を片付けながら、愛永は言った。

「船越川さんは、西藤さんの事情を知っているかもしれない方ですから。これから、ダンテさんが探りを入れていく手筈です」

「いや、今日の話だよ。いつ来るかとエレベータが開くのを見ていたけれど、彼女は、驚かなかった。エレベータの振動と爆音に驚かなかったの」

 愛永の観察眼は、いつも鋭い。

「思い過ごしだと思いますよ。今日は、ただの手続きだけで、何も怪しいところは、ありませんでしたから。そのうち、秘密はわかると思います」

「アリヘイはおっとりしているからな。私が相手していれば、すぐに尻尾をつかまえているよ」

 愛永にそう言われると、有江は反論することもできなかった。

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