第三話 神曲か喜劇か

 午前十一時を過ぎていた。


 有江は、駅前のデパートで当たり障りのないグレーのパンプスを購入する。一万三千九百円と消費税を封筒から支払い、釣銭からコーヒー代と電車賃として七百円を返してもらう。

 壊れたパンプスは、もっと高かったし、コーヒー代と電車賃を合わせるとまったく足りないのだが、細かいことを気にしない有江は、これでヨシとする。

 化粧室で新しいパンプスに履き替えた。

 転んだ際のスーツ汚れが鏡に映るが、それも細かいこと、気にしない。


 そんなことよりも、今は、いくら時間管理に大らかな会社だとしても、当日の朝に予定を変更したのだから、急いで出勤し、改めて状況を報告することが先決だと感じている。


「お互い災難でしたが、これで、わたしので結構です。残りは、あなたのお金なのでお返しします」

 デパートを出た先で、自称ダンテに封筒を渡した。


「では、これで失礼します」

 お辞儀をして、有江はきびすを返す。


 そのとき、自称ダンテは、有江の腕をつかんだ。

「私には、行く場所も、帰る場所もありません。この世界で生きていくのには、知らないことが多すぎます。もうしばらく、私が元の世界に戻る日まで、助けてもらえないでしょうか」

 自称ダンテは、今にも泣きそうな顔を……いや、泣き出した。


 グレーのスーツ姿の女性と朱色の布をまとった男が、駅ナカで立ち食い蕎麦をすすっている。

「パスタとは、また違った食感と香りで美味しいです」

 自称ダンテは、昼食は自分がおごるからと譲らず、有江は、ご馳走になっている。

 自称ダンテに「助ける」と約束していた。

 泣いている朱色の布をまとう男を放って、会社に行ってしまうこともできた。なぜ助けようと思ったのか、有江自身も不思議でならなかった。



 ひと駅戻り、会社に向かう。


 駅から歩いて十七分、オフィスビルと呼ぶには余りにも古ぼけたコンクリート五階建てのビルが目に入る。鉄筋が入っているかも疑わしい。

 このビルの三階に、梶沢出版は入居している。

 他の階には別の企業が入居しているのだが、ビルに看板を掲げているのは梶沢出版だけなので、自社ビルに見えなくもない。


 エレベータは備えられているが、乗降の際に激しく揺れるため、初めての来客は必ずと言っていいほど腰を抜かす。

 自称ダンテも飛び退いて驚いていた。もっとも、エレベータに乗る前から驚いていたので、振動に驚いたのかはわからない。


 梶沢出版株式会社は、創業二十四年、有江と同い年だ。

 従業員は、社長以下、総務部と編集部合わせて十三名であり、決して大きな会社ではない。

 過去には、手掛けた翻訳本がヒットして社員全員に臨時ボーナスが出たこともあったそうだが、最近はパッとしたヒット作もなく、ネットからスカウトした作家のライトノベル出版が主力となっている。

 ガタンと揺れて、ドアが開いた。


 梶沢出版は三階の全フロアを借りているので、エレベータホールも待合スペースとして利用している。

 ホールのベンチに座って待つよう、自称ダンテに言った。


 有江は、編集部の部屋に入る。

 正面の席に編集部長はいなかった。


「どうしたの? アリエッティのプレゼン楽しみにしていたのに」

 話し掛けてきたのは、三歳年上の仁廷戸じんていどだ。

 いや、仁廷戸は自分の苗字が大嫌いなので、会社では「愛永まなえさん」と呼ばせている。「仁廷戸さん」と呼んで許されるのは、編集部長だけだ。


「愛永さん、ご迷惑お掛けしました」

 午前中の経緯いきさつを簡単に説明して謝った。

 編集会議での有江の持ち時間は、愛永が代わってくれると聞いている。

「いいの、いいの。私が担当する作家連中は、異世界ものと転生ものしか書けないから、コンセプトも何もいつも一緒なのよ、だから、いつでも代われるから、困った時には言ってね」

 愛永は、口は悪いが担当する作家や作品を、誰よりも愛していることを有江は知っている。愛永と話すたび真意に翻訳したくなる。


「これから同行取材に行ってくるね。明日のプレゼン楽しみにしているよ」

 愛永は、手を振りながら編集部を出ていった。


 机の上に投げ出されたままの鉛筆や付箋紙を片付けながら、有江は部長を探す。

 ひと回り見渡すが、部屋に姿はない。

 ドアの向こうで、愛永と自称ダンテが話している様子が目に入った。


 自称ダンテに、あることないこと話されては困る。あることでも、ないことでも、うまく説明できる自信はない。

 ホールに急いで戻るが、ひと足違いで愛永はエレベータに乗り込んでいた。

「先輩と何を話したのですか」

「仁廷戸さんのことですか。あいさつして自己紹介しただけです」

 自称ダンテがどう自己紹介したのか、心配になる。


「もうしばらく、ここで待っていてください」

 そう言って、編集部に戻ろうとしたとき、

「栃辺さん、怪我はなかったの?」

 コーヒーカップを持ったスーツ姿の編集部長が、後ろに立っていた。

 部長は、いつものように、トイレに行って、奥の総務部で油を売って、給湯室でコーヒーを淹れて、戻ってきたのだろう。


「だいじょうぶです。怪我はなかったのですが、ヒールが折れて靴を買っていたので遅れてしまいました。予定を変更していただいて、ありがとうございます」

「それは、気にしなくていいけど……ベンチに座っている人が、ぶつかった人?」

 部長は、長身の身体をかがめ、小声で話し掛けてきた。


「あ、あの方は、作家さんです」

 正直に話しても信じてもらえないだろうし、ぶつかった相手と連れ立っているのも変に思われる。とっさに嘘をついた。

「ああ、そうですよね。ネットの方?」

「いえ、わたしに直接連絡いただいていて、先ほど駅前でお会いしたのです。あのお召しなので、驚きました」

 そうですかと言うや否や、部長は、有江にコーヒーカップを預けると、自称ダンテのもとに向かっていた。


「はじめまして、梶沢出版、編集部長の常磐道じょうばんどうと申します。うちの栃辺が担当しますので、よろしくお願いします」

 自称ダンテは、立ち上がって部長から名刺を受け取っている。もう有江が間に入っても手遅れだろう。

「そのいでたちは、ドゥランテ・アリギエーリですね。目立つことは苦手な先生が多い中、アピール度が高い先生は、出版社としても助かります。ところで、先生のお名前をお伺いしても、よろしいでしょうか」

「ダンテ……です」

 さすがにフルネームで答えるのはまずかろうと、自称ダンテも判断したようだ。


「そうですか、それは結構なことです。で、ダンテ先生は、何をテーマに執筆されているのですか。やはり『神曲』ですか」

「しんきょく?」

 ダンテは、自身の代表作を耳にしてキョトンとしている。今までの演技が完璧なだけに「そこは押さえていないのかい!」と心の中で突っ込んだ。


「私は今『喜劇』を書いています」

「ああ、これは失礼しました。『神聖喜劇』ですね。そうですよね、本人なのだから『喜劇』ですよね」

 部長は、これは一本取られましたなと言いながら、勝手に納得している。


「部長、来て早々ですが、ダンテさんとの打ち合わせに外に出てもよろしいでしょうか」

 これ以上耐えられそうもないと思い、脱出を試みる。


「いいですよ。プレゼンは、明日の朝一に入れておきました」

 そう言いながら、部長は有江の方に向き直り、

「この方、ユニークだけど大物の匂いがします。進捗はマメに報告してください。頼みましたよ」

 そう話す部長の顔は、真剣だった。

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