第四十九話 冷却作戦の結果

 岩場を降り、第七の圏に戻る。


 第一の環は、重曹泉周囲の岩が本来の色を取り戻し、赤茶色に光っている。

 水路は湯を湛え、滔々とうとうと流れている。流れ出す湯量に変わりはなく、湧出量は豊富なようだ。


 ダンテたちは、水路に沿って歩いた。

 すでに、遠く第二の環に立つアンタイオスの姿が見えているが、なかなか近づかない。


 黙々と歩く中、西藤さんが持つ通信機の着信音が鳴る。

「システム更新が終わって、メッセージが届きました」

 西藤さんが、読み上げる。

「えっと『C6H8O7+3NaHCO3→Na3C6H5O7+3CO2+3H2O』です。読みにくいな」

「化学式ですね」

 有江は自信たっぷりに答えるが、何の化学式かはわからない。

「クエン酸と重曹を混ぜた時の反応式ですね。わざわざ送信してきたのだから、何か理由があるはずです……」

 そう言った西藤さんは、文字をひとつずつ追っている。

「……ここですね『3CO2』二酸化炭素が発生するから気をつけろということです」

「西藤さん、すごいですえね」

 ダンテが、珍しく褒める。

「そうか、二酸化炭素は重いから、コーキュートスには降りてはいけないんだ」

 西藤さんは、得意げに説明を加えた。


 そのとき、再び通信機の着信音が鳴る。

「Caution! God may send Lucifero into this world.」

「長文も送れるようになったのですね。それにしても『注意! 神はルチーフェロをこの世界に送り込むかもしれない』とは、物騒な内容ですね。失敗は許されないということですか」

 有江は、素直に感想を言っただけだが、ダンテは難しい顔をして考えている。


 四十分歩き、ようやく、アンタイオスの足元に着く。

 第二の環では、ケンタウロスたちが高台から指示を出し、魂たちが忙しそうに果実を集めている。

 上空にハルピュイアの姿は見えない。いたとしても、アンタイオスのひと払いで、叩き落されてしまうだろう。


 陣頭指揮を執っていたケイローンが、帰還したダンテたちに気がつく。

「これは、ダンテさん、ご無事なようで何よりです。救出作戦はうまくいったのですね」

「全員が無事でした」

 ダンテは、顔を綻ばせた。


「こちらの作業も順調です。魂たちは、まじめに作業しています。根はいい奴なのかもしれません。我々も、魂たちを乗せて運ぶのを手伝ったりしていますよ」

 ケイローンは、安納の顔を見た。

「あなたも、頑張ったのですか」

「ええ、悪魔たちに一泡吹かせてやりました」

 ケイローンの問いに答えた安納は、私もここでみんなと果樹を集めますと果樹園の中に戻っていった。

「安納さん、ありがとうございました」

「こちらこそ、名前を付けてもらい、嬉しかったです」

 有江は、安納に手を振った。

 安納は、果樹園の中に消えていった。


 そう話す間にも、魂たちは窪地に果実を投げ入れ、アンタイオスが踏み潰している。アンタイオスが足を上げると、待ち構えていた魂たちが果実を投げ入れ、見る間に山となった。

 果汁は水路に流れ出し、見るからに酸っぱそうな黄白色の川となり、中心部に向かって流れている。


「私たちは、コーキュートスに行ってみます。果実を取り終えたら、元の場所に戻ってもらって構いません」

 ダンテは、ケイローンのそばに寄り、握手を交わし感謝を述べた。

「まだまだ果実は豊富にあって、収穫は終わりそうにありません」

 このまま、この作業がこの圏の罰となるかもしれませんと、ケイローンは笑った。


「ひとりで第九の圏に戻れますか」

 ダンテは天を仰ぎ、大声で尋ねた。

 アンタイオスは、角笛つのぶえを手にOKサインをして見せた。


「ありがとうございました」

 ダンテたちは、みなに別れを告げた。



 二本の水路に沿って第三の環を通り、第八の圏へと降りる崖の際へと着く。

 ゲーリュオーンが、横たわっていた。

「一方向に同じ人間を二回も乗せるのは初めてですよ。出発しますので、背中に乗ってください」

 ダンテは、最前席にまたがる。

 有江は、その後ろにモフ狼を抱いて乗る。モフ狼の口元はすでにきれいになっていたが、有江は、時折見せる牙の鋭さが気になった。

 西藤さん、天使も乗り込んだ。

 全員が乗ったことを確かめると、ゲーリュオーンは、旋回しながら谷底へと降りていった。


「第九の圏への入り口まで行けますか」

 先頭に座ったダンテは、ゲーリュオーンに尋ねた。

「お安くしておきます」

 ゲーリュオーンは、スピードを上げた。

 風を切る音が大きくなり、ダンテとゲーリュオーンの会話も聞こえなくなった。

 上空から、十のふくろに区切られた第八の圏が見えたが、それも束の間、たちまち第九の圏への入り口へと着いた。


 ゲーリュオーンから降りたすぐ目の前に、ニムロドたち五人の巨人がつながれる井戸がある。

 上空から、第六の圏から流れ落ちる湯が、井戸に降り注いでいる。

 ニムロドたちは、ミストシャワーを浴び、寛いでいた。


「これは、小さき者たちよ。これほどまで心地よいものとは思ってもいなかったわ。感謝しているぞ」

「それは、何よりです」

 ダンテは、大声で答えた。


「アンタイオスは、どうしたのだ?」

「第六の圏で果汁を絞ってもらっています。作業を終えて戻るときに角笛を吹きますので、降りるのを手伝ってください。よろしくお願いします」

 有江も、大声で答えた。

「わかっておる」

 巨人は、天に顔を向けると目を閉じ、シャワーを浴びながら言った。


 注がれた湯は、井戸から溢れ、水路に集められている。

 凍えた大地は、重曹泉を十分に冷ましていた。


 ダンテたちは、水路に沿って歩き、エピアルテースがつながれる井戸へと向かう。


 エピアルテースがダンテたちを見つけて、声を掛けてきた。

「わしの出番は、まだかな」

「もう少しです」

 ダンテが答えた。

「そこからコーキュートスは見えますか」

「ああ、見えるとも。目の前の水路から水が流れ込んでいるぞ」


「コーキュートスに落ちる果汁は、見えますか」

 果汁の水路は、コーキュートスに直接落ちるよう第七の圏の崖を回り込んで造ってある。

「見えるぞ。滝ができておる」

「ルチーフェロはどうしていますか」

「これは、おもしろい。くやしそうな顔をして、必死に身体を氷から抜こうとしているわ」

「では、私たちが崖の縁に着いたら始めてください」

「わかった、楽しみじゃな」


 ダンテたちは、エピアルテースの井戸を過ぎた。


 ほどなく、アンタイオスが以前いたコーキュートスに降りる崖の縁に着く。

 エピアルテースの言ったとおり、湖は、冷たい重曹泉が流れ込み、光を反射しキラキラと輝いている。

 左奥には、クエン酸が滝となって流れ込んでいた。


 そのとき、地面がドーンという地響きと共に激しく揺れ始めた。


「エピアルテースが、身体を揺らしているのです」

 ルチーフェロのいる方向を見ながら、ダンテは言った。

 初めの揺れが収まらぬうちに、再び地響きと共に地面が揺れる。

 繰り返し、繰り返し、地面が揺れた。


 クエン酸の滝は、揺れによって拡散され、湖の広範囲に霧となって降り注いでいる。既に流れ落ち溜まっていたクエン酸は、揺れによって周辺の炭酸水素ナトリウムと混じり合っている。

 大気が、揺らいでいる。

 吸熱反応によって、コーキュートスは一気に冷やされている。


 有江たちの足元にも、冷気が忍び寄ってきた。

 温度が下がっているのが、はっきりとわかった。


「ダンテども! ここに来て、直接決着をつけようではないか!」

 ルチーフェロが、叫んでいる。

 遠くに見えるルチーフェロは、もがくことを止め、ユダとブルートゥス、カッシウスの魂でお手玉をしている。


「成功ですね」

 これで、ルチーフェロを閉じ込める氷は冷え、強固なものとなるだろう。しばらくは、ルチーフェロの復活は、ないはずだ。


「憶えておくがよい!」

 再び、ルチーフェロの叫び声が聞こえてきた。

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