第九話 上野の地獄の門
ダンテが、今日も会社にやってきた。
「ナニカデソウに電気が通りました。水道も使えるようになり、お湯も沸かせて、ネットカフェに近づきました」
ネットカフェにしなくてもいいのにと、有江は思う。
「第三歌の校閲をお願いします」
有江は、ダンテからのファイルを受け取った。
「いよいよ、地獄の門が登場ですね。今度、見に行きましょうか」
有江は、冒頭を読んで、ダンテに言った。
「地獄の門が、あるのですか」
「世界に七つあるうちのふたつが、日本にありますね」
ダンテは、パソコンから顔を上げ、目を丸くして有江を見ている。
「七つあるのも驚きですが、ふたつもあるとは、日本は地獄に近いのでしょうか」
「そうですね、日本での『地獄』は、結構ポピュラーだと思います。三途の川や針の山、閻魔大王とか、なぜかイメージできたりしますね」
「日本の地獄も『神曲』の地獄と同じなのですか」
「そっくりですよ。三途の川はアケローン川だし、閻魔大王は地獄の裁判官ですからミノスと一緒です。針の山や火炙りなど責め苦も似てますね」
「日本でも、地獄に行った話はあるのですか」
「地獄に限らず死後の世界に行った話はたくさんあります。死後の世界は『
「地獄の門は、日本のどこにあるのですか」
「上野の国立西洋美術館と静岡県立美術館ですね」
有江が伝えると、ダンテはさっそく場所を検索している。
「上野は近そうなので、ぜひ見に行きたいですね。私が日本に来た原因がつかめるかもしれません」
「明日は休みですから、お時間があれば、上野に行きますか」
ダンテに時間がないわけがない。ダンテは、二つ返事で行きますと答えた。
朝九時に駅前で待ち合わせる。
空は低く、風は冷たい。
駅前では、風が枯葉を運び、ロータリー中央にある交番の隅で吹き溜まっている。
土曜日の午前ともなれば、駅前は結構な人数が行き交っている。広場には募金活動をする男女の姿が見える。
有江は、ダンテより先に着いたらしい。約束のベンチには、誰も座っていなかった。
有江が道路を見通せる歩道まで出たとき、ロータリーの向こうから歩いてくるダンテが見えた。ダンテは、白のポロシャツにカーキのズボン、朱色のベストにキャメルのハーフコートを着ている。自分で買い足したようだ。
有江は、身分証明書のないダンテに、不審な行動をせず目立たない服装にするように言っている。警察官から職務質問でも受けようものなら一巻の終わりだ。ダンテも、一巻で終わりでは寂しすぎますと妙な納得の仕方をしている。
そんなダンテが、交番前を通り過ぎようとしたとき、警察官が外に出てきた。
有江がまずいと思ったときは、遅かった。
警察官が、ダンテを呼び止める。
ダンテは、振り返った。
ダンテは……警察官とひと言ふた言話し、お辞儀をして交番を離れた。
「有江さん、おはようございます」
「お巡りさんと、な、何を話したのですか」
「今日は、地獄の門をくぐってきますとお話ししました」
「顔見知りなのですか」
「ええ、
「な、何を言っているのですか。ダンテさんが相当危ない立場であることは説明したはずです。気をつけてください。それに、地獄の門はくぐれません」
電車に乗り、上野に向かった。
途中、二回の乗り換えがあり、およそ一時間かかる。
有江とダンテはベンチシートに並んで座り、うたた寝している間に、上野に着いた。
「大きいです」
ダンテは『地獄の門』の前に立っている。
「フランスのオーギュスト・ロダンが造ったものです。本物です」
「ロダンくんといい、鴎外さんといい、ありがたいことです」
「森鴎外は『花子』という作品でロダンのアトリエを舞台に小説を書いています。物語の中で、書棚に『神曲』があると書いてあったはずです。短い作品なのですが、難しい漢字とフランス語とで読むのに苦労した覚えがあります」
「徐々に私と繋がってきた感じがしますね。ところで、この門が開くのは、いつなのでしょうか」
「ブロンズの鋳物ですから、残念ながら開きません」
ダンテは、門の裏を覗き込んでいる。
「後ろにドアが付いてますが、開きませんか」
「上下に二分割できると聞いたことはありますが、開くとは聞いたことがありませんね」
「残念です。開かなければ、くぐれないはずです。それにしても、装飾が素晴らしい。あっ、右の柱の下にパオロとフランチェスカがいますね。上のふたりもそうでしょうか」
ダンテは、三十分ほど門の前から動かずに眺めていた。
「時空を超える世界へのゲートではないようですね。しかし、芸術作品の『地獄の門』として見応えがありました。とても感動しましたよ」
お昼近くなり、人も増えてきた。
ふたりは、混む前にレストランで早めのランチをとる。
「ダンテさんは、時空を超越する世界に通じるゲートがあると考えているのですか」
「もちろんですとも」
ダンテは、自信満々に説明し始める。
「よく『点の世界では線の世界を、線の世界では面の世界を、面の世界では立体の世界が認識できない。同じように、私たちの世界では時空を超越する世界を認識できない』と言われます」
「聞いたことがあります。点は一次元、面は二次元、立体は三次元、つまり、わたしたちが存在する世界。そして、四次元ですよね」
「しかしです。それぞれの世界が絶えず変化していたら状況は変わります。線の長さが変わる、面の広さが変わる、立体の大きさが変わるとどうなるでしょう」
「線の長さが変化していれば、長さ0のときに点になりますね」
「そうです。点の世界から面の世界がその時だけ認識できるのです。面が線になるとき、立体が面になるときも同じですね。そればかりだけでなく、条件が揃えば、面が点になることも、立体が点になることもあるのです」
「つまり、この世界から、ダンテさんが通ってきた時空を超越した世界が認識できるときが、あるかもしれないということですね」
「そのとおりです」
「しかし、この三次元の世界が面になることはありませんし、ましてや点になることもありません。時空を超越した世界が、この次元から見えることがあるのでしょうか」
「時空を超越する世界の新たな変化軸は『時間』です。時間であれば、物理的に影響を与えるものではないと思うのですよ」
有江は、わかったような、わからないような、化かされている気がした。
ランチを食べ終え、美術館と動物園も観てまわる。
観終えたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。
「今日は、どうでしたか」
有江は、ダンテに感想を求めた。
「『地獄の門』は、写真とは大違いでしたね。今日は、鑑賞するだけになってしまいましたが、この目で見ると一層、この門が無関係なはずはないと思えるのですよね。感じるのです」
ダンテは、美術館や動物園の話はまったくせずに、そう言ったきり、黙ってしまった。
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