第三十一話 ダンテは校閲中
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神曲リノベーション・地獄篇(第九歌)
ウェルギリウスが引き返し戻ってくるのを見て、ダンテは怖れを表情に出してしまう。黒々とした空は厚い霧に覆われ、遠くまで見えない。ウェルギリウスは、常ならぬ顔色を内へと隠し、耳を澄まして沼に意識を集中し立ち止まった。
「私たちは、この戦いにどうしても勝たねばなりません。さもなくば……いや、あの方が約束されたというのに、天の使いの到着がなんと遅く感じることでしょう」
ダンテは、ウェルギリウスが言いかけた言葉を呑み込んだことに気づいた。内容が途中で変わったが、ダンテは、言いかけの言葉から悪いことを勝手に想像し、恐怖に駆られた。
「罰として希望を奪われた第一圏の者たちの中で、この悲惨な窪地の底ディースに降りた者はいるのですか」
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全文は、次のリンクからお読みいただけます。
カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818023212354450571/episodes/16818093075869797007
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石棺の蓋は開けられ、中からは苦しげな呻き声が聞こえてくる。あまりの痛ましさに、それらは重い罰を受ける者たちの声であることは、すぐにわかった。
ダンテは尋ねた。
「あのような石棺に葬られ、苦しげな呻き声でしか存在を表せない者たちは、どのような人々だったのですか」
ウェルギリウスは、ダンテに言った。
「ここにいる者たちは、異端の創始者とその信奉者たちです。あなたが思う以上に、全ての墓にあらゆる異端者が、数多く収められています。ここでは、同門同士が同じ墓に葬られ、墓標を焼く熱も過ちの度合いに応じています」
ウェルギリウスは右に曲がり、墓と城壁の間を通っていった。
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「ウェルギリウスさんが、過去にエリクトーの呪文によってユダの圏に行ったことがあるというのは、ウェルギリウスさんの著書におそらく書かれているのかなと想像はできるのですが、それが何かわかりません」
有江は、ダンテに正直に話した。
「惜しいのですが、不正解です。エリクトーはテッサリア地方の魔女で、ルーカーヌスの『内乱』という叙事詩に登場します。しかし、この魔女は、ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場するクーマエのシビュラに相対する存在として描かれていると言われていますので、まったくの不正解というわけではないです。クーマエは古代ギリシャの植民市で、シビュラは予言を託す巫女のことですね。ウェルギリウスは、アエネーアースの冥界への旅路に同伴した女性として登場させています」
「もう一度、お願いします」
有江は、降参しようかと思った。
「ダンテさんは、神曲リノベーションを書きながら、宗教における地獄の意味について調査する時間は取れるのですか」
「それは、だいじょうぶです。西洋の地獄観は、自画自賛ですが『神曲』に影響されている描写が多いですし、日本の地獄との共通性も既に話題になったところです。それらをまとめて、現世の戒めとしてとでも結論づければ、格好がつきますね。さあ、校閲を進めましょう」
「悪魔三体が『地獄を襲ったテーセウスに報いを与えなかったのが失敗だった』と叫ぶのはなぜですか。ヒントもないようです」
「テーセウスは、ギリシア神話に登場するアテーナイの王です。アテーナイは、今のアテネですね。彼は、ミーノータウロス退治で有名なのですが、盟友ペイリトオスと共に冥界の女王ペルセポネーを誘拐しようとしたのです。結局、ふたりは『忘却の椅子』に座り、囚われの身となったのですが、四年後にケルベロスを生け捕りにしようとやってきたヘーラクレースに助け出されたのです。その後もちょいちょい地獄に人間が現れるので、けじめをつけておきたかったのです。ペルセポネーは、ゼウスとデーメーテールの娘で、ハーデースの妻です。先日、パチンコ店でお見掛けしました」
「『テセウスの船』のテーセウスという認識でよいでしょうか」
有江は、完全についていけなくなった。
「愛永さんが、ダンテさんの打ち合わせがあった日から、二日も経つのに考えごとばかりしていて様子が変なのです」
有江は、心配ごとをダンテに話した。
「たしかに、フィオーレでも口数が少なかったですね。私の報告の内容に気になるところがあったのでしょうか。後でじっくり思い返してみましょう。校閲を続けてください」
「メドゥーサは知っています。知っている名前が出てくると、ほっとします」
「ゴルゴーン三姉妹の美人末っ子ですね」
「メドゥーサに姉がいるのですか」
「ステンノーとエウリュアレーがお姉さんです」
有江は、その名を聞いたことがない。
「メドゥーサは、長髪の美しい女性でした。ポセイドンの愛人となり、処女神アテーナーの神殿で体を重ねたのです。それを知ったアテーナーは怒り狂うのですが、最高神ゼウスに次ぐ高位な神ポセイドンを罰することができず、メドゥーサだけを罰したのです。髪を毒蛇にし、見る者を石化させてしまう醜い怪物に変えたのです」
「なかなかの、どろどろした展開ですね」
「このことに抗議したふたりの姉ステンノーとエウリュアレーも同じように怪物に変えられてしまったのです。『ゴルゴーン』は恐ろしいものという意味です。ちなみに、ペガサスは、メドゥーサの子です」
「ひどい話ですね。なんでもありの感がします」
「ダンテさんは、調世会が嘘をついていると思いますか」
今日の有江は、知らないことばかりで校閲にも身が入らない。
「ピースを当てはめていくと、どうしても調世会が時空を超越する世界への入り口を探していたという絵しか描けないのです。結果、調世会は嘘をついていることになります。今は、その理由が気になるところですね」
「調世会は、敵でしょうか」
「敵だとすれば、私を雇ったりはしないはずです。むしろ、私からの情報が欲しいのかもしれません。私は調世会のことを調べていますが、調世会は私のことを調べているのでしょう。校閲の時間です」
「いかにも当然のように突如現れて、なんの苦もなく門を開けて去っていくのは、やはり神ですか。安易に感じます」
「いや、いや、神は自ら手を下したりはしません。天使です」
「同じことだと思います」
「時空を超越する世界って、どんな世界なのでしょうね。不思議です」
有江は、完全に校閲をやめてしまった。
「私も、考えましたよ。例えば、今改稿している『神曲』は、七百年前のイタリアで書いた三行詩ですが、二千二十四年の日本において、有江さんの脳に影響を与えています。紙という媒体に活字で記録された情報が、時と場所を隔て、有江さんを『これ誰なの』と悩ませているわけです」
「例えは意地悪ですが、そのとおりです」
「時空を超越する世界……超越世界では、これが瞬時に起きるわけです。いや、時も超越するので『瞬時』という概念もないことになりますね。超越世界では私と有江さんは、不思議な現象なしに一緒にいるのです」
「わかるような、わからない話です」
「そのとおりです。この世界から観ると『わからない現象』が、超越世界の現れだと思うのですよ。でも、そのほとんどがオカルトティックな扱いしか受けられず、科学的に研究されているのは、ほんの一部です」
「研究されている『わからない現象』もあるのですか」
「天文学の『ブラックホール』や、物理学の『量子もつれ』などは、そうだと思いますよ」
「超越世界は、冥界なのですか」
「そうなのかもしれません。そして、私はそこに行ったことが、あるのかもしれません」
「科学が進むと、冥界とのつながりが解明されるかもしれないのですね。不思議です」
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