第三十一話 西藤さんが現れる
ダンテは、有江の手を取って飛び退く。
ベンチの後ろで、空の明かりに照らされた白い狼がこちらを睨んでいる。うなる口元に鋭い牙が光った。
その獣は、優に大人ひとりほどの大きさはある。
ベンチを回り込んで近づいてきた。
ふわふわとしている。
獣は、泡立てた洗顔ソープのようなふわふわの毛並みだった。思わず触りたくなるほどのモフモフ感に溢れている。
「か、可愛いです」
有江の心は、一瞬で奪われた。
「私の『神曲』では、豹と獅子と雌狼に襲われるのに、どうしてこうなるのでしょう」
ダンテは、不満げに言った。
「危険なめに遭わないだけでも、ヨシとしましょう」
有江は、無警戒にも、モフモフした狼の喉元をさすっている。
モフモフ狼に襲ってくる気配はない。
モフ
「ここにいても、手掛かりはつかめなさそうです。移動すれば『神曲』のように、何か見つかるかもしれません」
有江は、そう言って歩き始めた。どちらに向かっているのか、方角はまるでわからない。
モフ狼とダンテは、有江の後を追った。
空の明るさが増し、周囲の様子もはっきり見えるようになってきた。
森はひらけ、目の前に小高い丘が現れる。
しかし、その周囲は緑色のフェンスで囲われ、入り口であろう門には鎖が巻かれ、南京錠が掛かっている。
「立入禁止」の看板が掛けられていた。
「乗り越えましょうか」
フェンスに手を掛けようとするダンテを、有江は止めた。
「やめておきましょう。嫌な予感がします」
「そう、やめて正解です」
後ろに大きな楓の木が生えていて、その根元から男の声が聞こえてきた。
声の方向に、ぼんやりと影が見える。それは、徐々に人の形になっていく。
「ダンテさんに、有江さんですね」
まだはっきりとしない影が言った。
「もしや、あなたは、ウェルギリウスですか」
ダンテは、旧友にでも会うような、懐かしむ口調で尋ねた。
「いやいや、申し訳ありません、そんな立派な方ではありません。私は、西藤、西藤隆史です」
ようやく、影は、赤いジャージを着た男性の姿になった。
「は、はじめまして。栃辺有江です」
「ダンテ・アリギエーリです」
ふたりは、あっけにとられている。
「これは失礼しました。死んだ人間が現れたのですから、驚きますよね」
西藤さんは、白いストライプの入った赤いジャージ姿で頭をぺこりと下げる。身長は百七十センチメートルほどだろう、ダンテより少し高い。足元を見ると、白い運動靴を履いている。
「えーと、どこから説明しましょうか」
「なぜ、やめて正解なのですか」
有江は、もっとも簡単そうな質問にする。
「それは、なかなか答えにくい質問ですね」
そうでもなかった。
「『立入禁止』の看板が掛かっているからですね」
答えは、簡単だった。
「その看板は、有江さんが掛けた看板だから、私に理由はわからないけれど『やめて正解』なんです」
西藤さんは答える。簡単ではなかった。
「わたしは、看板を書いた覚えも、掛けた覚えもありません」
「いや、見るからに有江さんが造った世界ではありませんか」
西藤さんは、近づいてくると、有江の横に座るモフ狼をなでながら話を続けた。
「この森の様子だったり、この狼だったり、有江さんの好みでしょ」
言われてみると、そうかもしれない。ベンチもあった。
「本来、この世界は時空を超越しているので、現世から立ち入った私たちは、認識できないし、肉体を保持することもできないのです。こうして会話できるのは、現世と同じこの『舞台』があるからなのです」
「ここは『舞台』なのですか」
「そう、有江さんには『舞台』を造る力があるのです。わかりやすく言うなら『冥界中に現世のディメンション世界を構築する能力がある』ということです」
わかりにくくなった。
「なぜ、有江さんの世界なのですか」
ダンテが、怪訝そうに尋ねた。
「ダンテさんにも同じ能力はあると思います。『神曲』で描かれた鬱屈した情景は、まさにダンテさんの世界です。今回は、有江さんの力の方が強かったということでしょう」
さりげなくディスられたが、ダンテは気がつかない。
西藤さんは、話を続ける。
「私に、その能力はありませんでした。肉体を保持することはできず魂だけ召されてしまい、この舞台ができるまで、それは何もない世界で漂っているだけでした」
けっこう深刻な内容を、さらりと話す。
「西藤さんは『月見岩』でなくても、冥界に来られると知っていたのですか」
有江は、ずっと疑問だった点を尋ねる。
「そこは自信ありましたよ。現に魂だけ来ちゃいましたからね。条件は、『神曲』にある三十三度での満月の南中と、悪魔を讃える呪文です」
「三十三度と書いた覚えは、ありませんが」
ダンテは、不思議そうに尋ねた。
「『神曲』の地獄篇は序の一歌と三十三歌、煉獄篇と天国篇は三十三歌で構成されているじゃないですか」
たしかに、ダンテも「三」や「三十三」を熱弁していた。
「なぜ『月見岩』のヒントを残したのですか」
有江には、理由がわからない。
「勝っちゃんが、呪文のことをまるで信じてくれないから、ちょっとした嫌がらせですよ。おふたりも山登りして『月見岩』から来られたんでしょ」
勝っちゃんとは、常磐道部長のことなのだろう。たしか『勝清』という名前だ。
「嫌がらせをしたおかげで、ダンテさんが現れ、有江さんも一緒に行動するようになったのですから、好都合でしたね」
何が楽しいのか、西藤さんは笑っている。
「わたしは、思いどおりに舞台を造り、操ることができるのですか」
そうであれば、有江は現在の日本に戻る舞台を造り、ダンテには十四世紀のイタリアに戻る舞台を用意すればよい。
「そこまでは、できないでしょうね。『立入禁止』と看板はあっても、具体的な危険は、有江さん自身もわからなかったように、舞台は有江さんが意識するしないに関わらず造られているようです。舞台上の演者は、私のように死んじゃった人だったり、はなから冥界にいる者だったりですから、有江さんの意志ではどうにもならないでしょう」
有江は、立入禁止の看板から、これほど大事になるとは思ってもいなかった。
「先に進みながら、話をしましょう」
西藤さんは、フェンスに沿って右手に歩いていく。赤いジャージが目立つので、見失うことはなさそうだ。
ダンテは、ジャージをうらやましそうに見ている。
三人は、横一列になって歩いた。
モフ狼は、ときどき振り返りながら、先を歩いている。
「わたしは、小学生のころにも、ここに来たことがあるようです。でも、西藤さんが身を挺して証明した呪文は、まるで知りませんでした。どうやって来たのでしょう」
有江は、自分の知らない自分のことを、西藤さんにおそるおそる尋ねた。
「それ、待ってました。私は、ひとつ仮説を持っているのですが、勝っちゃんは、呪文のときと同じように、ぜんぜん相手にしてくれないんですよ」
「有江さんは、呪文なしでも冥界と行き来できる力を持っていたんです」
答えは簡単だが、わからない。
「なぜ、有江さんだけなのでしょう。パスでも持っているのですか」
ダンテが冗談まじりに尋ねた。
「そうです、パスです。パス現物はないので、顔パスでしょうか」
ますます、わからない。
「有江さんは『ベアトリーチェ』の生まれ変わりだから、顔パスなんですよ」
いいなあと西藤さんは付け加えた。
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