第二章 課題

第三十九話 ルチーフェロが現れる

 ルチーフェロ――ルシファーの呼び名の方が知られているだろうか――は、第九の圏の最奥にある湖コーキュートスに氷漬けにされている。彼は、天使たちの中で最も美しい大天使であったが、自ら堕天使となり、神に敵対し謀反を起こしたため、最奥の地で胸から下を氷の中にし幽閉されている。

 その氷が融け始め、ルチーフェロが解放されかけているという。


「それを私たちになんとかしろと、神はおっしゃるのですか」

 ダンテは、天使に確認する。

「そのとおりです」


 無茶な話だと、有江は思った。

 現代の日本にダンテが現れたのは、地球温暖化を止める使命を持ってのことだとすれば、相当に荷が重い。

 さらに、この冥界で、堕天使に脱走しないでとお願いして聞き入れてもらえるとは、とても思えない。


「まずは、現場を見てもらいましょう。案内しますので、後についてきてください」

 天使は、立ち上がりながら「翼が、重いのですよね」とつぶやく。

「アンタイオスさん、すみません、ぼくを先に降ろしてもらっていいですか」

 飛べばいいのにと、全員が思った。


 アンタイオスの手を借りてコーキュートスに降りる。

 コーキュートスは、凍えるような寒さではあるが、氷の表面には薄らと水が溜まり、光を反射し煌めいている場所もある。

「こういったところに温暖化の影響が出ているのです」

 天使は、腕を組んで寒さをこらえている。

 有江とダンテは、月見岩でのテント泊に備えた服装をしているので、ある程度の寒さには耐えられる。

 西藤さんは、死んでいるから平気ですと気にも掛けていない。

 モフ狼は、氷の上を滑って、はしゃいでいた。


 一面の氷に覆われた視界の先には、ところどころに「裏切り」の罪を犯した魂たちや、神に抗った悪魔たちの頭や手足が突き出している。


 有江たちは、転ばぬように慎重に歩を進めた。

 凍りついた魂の横を過ぎることもあれば、あるじが逃げ出した後のあなだけを目にすることもあった。

「この孔から抜け出した魂は、煉獄に逃げ込んで指名手配中です」

 冥界にもそういう仕組みがあるのかと感心する。


 コーキュートスの奥に、堕天使ルチーフェロが、腹から上を氷から突き出していた。

 その身体は、ギガンテスよりも大きい。

 ルチーフェロは「神曲」で描かれたような、獣毛に覆われた三つの顔を持つ怪物ではなかった。

 顔はひとつ。元天使だけあって顔立ちは整っており、肌は透き通るように白い。翼は畳まれているが、蝙蝠こうもりのそれではなく、天使と同じ羽根だ。傍らでビビりまくっている天使を巨大にした感じだ。


「これも有江さんの能力で改変されたのでしょうか」

 ダンテは尋ねるが、有江に解るはずもない。

「ルチーフェロは、ずっと変わっていませんよ」

 西藤さんの陰に隠れながら天使が言った。

「きっと、ダンテさんの無意識のひがみが『神曲』を書く際に発露したんですね」

 西藤さんは、冷静に分析する。


 ユダとブルートゥス、カッシウスの魂を、右手でつかんでは放り投げ、時折かじってもてあそんでいたルチーフェロが、ダンテたちに気がついた。

「これは、誰かと思えばダンテではないか。また我の邪魔立てをしに来たのか」

 ダンテは、ルチーフェロと顔見知りのようだ。


「邪魔立てをしに来たと言うからには、何か企んでいるのですね」

 驚いているダンテに代わり、有江がルチーフェロに向かって叫ぶ。

「これは、ベアトリーチェの生まれ変わりの人間も一緒とはおもしろい。我は囚われの身、氷漬けにされ動けぬこの状況で何ができるというのだ。ここは見逃してやろう、さっさと地獄を抜けて、立ち去るがよい」

 ルチーフェロは、ユダの魂をひとかじりした。


 有江たちは、ルチーフェロに背中を向け、小声で話し合う。

「悪魔は嘘つきだと聞いたことがありますが、堕天使も嘘つきですか」

 西藤さんが答える。

「ルチーフェロは、悪魔の代名詞にもなる位ですから、嘘ついてますよね。あの左手見てください。氷と胸の間を隠すように置いて、溶け始めた隙間を隠しているんですよ」

「それでは、見逃すと油断させておいて、わたしたちを捕まえる気ですね」

 ひとまず、アンタイオスのいる場所に戻ることにする。


「ここを通り過ぎぬとは、何か企んでいるのは貴様たちの方であろう」

 ルチーフェロが叫ぶ声を無視して、来た道を引き返した。


 たしかに、コーキュートスは溶け始めている。

 ルチーフェロが抜け出すのも、時間の問題だと思われた。

「現世に帰って、すぐに温暖化を止める必要がありますね」

 有江は、強く決意する。

「問題は三つ。どうやって帰るのか、現世の温暖化を止められるのか、間に合うのか、です」

 どれも無理でしょうと、西藤さんは冷たく分析する。

「では、ここを冷やす力を強めることはできませんか。コーキュートスは、どうやって冷やされているのでしょう」

 天使を見るが、首をかしげている。


「ルチーフェロの羽ばたきによって、風が巻き起こり、冷えるのですよ」

 それまで黙っていたダンテが、口を開いた。

 有江は思い出した。「神曲」を読み、自分で自分を凍らせている姿に間抜けだと感じたところだ。

「先ほどのルチーフェロは、羽ばたいていませんでした。さすがに気がついたのですね」

「では、他に冷やす方法はないということですか。困りましたね」

 西藤さんは、束の間考える。

「勝っちゃんに聞いてみましょうか」


「そうですね。目的も明らかになったので、常磐道さんたちにも知らせておきましょう」

 ダンテは西藤さんに同意し、通信機を取り出す。

「さて、どう送りますか。今までの流れから『9』は決まりですね」

 ダンテは「9」を打ち込む。

「冷やすは『COOL』とすれば、字数が少なくなります」

 西村さんが言った。

「冷やす方法を知りたいので『COOL化?』としたいですね。『9COOLKA?』と送信しましょう」

 有江が提案すると、西藤さんは異議を唱える。

「最後が『KA?』で終わると疑問形とも取れるので、他の言葉にした方がいいですね」


「やだなあ、西藤さん。常磐道さんたちは『COOLKA?』を見て『冷たいか?』と読むわけありませんよ。それでは『か』と『?』の意味が重複します。『KA?』は『化?』であることは、すぐわかります」

「有江さんに一票です」

 ダンテは、通信機に打ち込み、送信ボタンを押した。

 西藤さんは、肩をすぼめている。


「ところで、私がルチーフェロを邪魔したって、何をしたのですか」

 ダンテは、天使に尋ねた。

「ダンテさんは、自分の世界での疫病の流行が、ルチーフェロの仕業だと知り、この冥界に来て阻止したのです。少なくても、ペストで二回、スペイン風邪で一回の三回は阻止しています」

「疫病専門なのですね。ワンパターンでは、それは阻止されますよ」

 有江は、正直に感想を述べた。

「ルチーフェロは、あのとおり動けませんから、第八の圏、第十のふくろで変異したウィルスを、悪魔たちを使ってダンテさんの世界に送り込んでいるのですよ」

「なぜ、そんなことをするのですか」

「神を信じて生きている人々が、無慈悲にも病で亡くなればどう思いますか。ルチーフェロは、神に反目する魂を多く生み出し、冥界の転覆を謀ったのです」


「私は何も覚えていません。冥界のことはともかく、現世での記憶はあるはずだと思うのです」

 天使の説明のただのひとつも覚えてないと、ダンテは言う。

「ぼくが思うに、その都度、神さんに記憶を消されているのですよ」


「神さま、恐っ!」三人の声が合った。

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