第五話 「神曲」が気に入らない

 出勤するので一緒に行きましょうかと有江ありえがダンテに尋ねると、ダンテは、買い物したいのでお金をくださいと言う。

 有江は、封筒から一万円札を出してダンテに渡した。

 ダンテは、有江と同じ電車に乗り、同じ駅で降りたが、会社とは別方向に歩いていった。


 有江は、朝一の編集会議で昨日行うはずだった担当作品のプロットを説明した。

 しかし、案の定、練り直しの指示が出る。

 昨夜のうちに見直せる部分もあったのだが、ダンテの件で頭が一杯だったし、疲れ果て、早々に寝てしまいまったく手を付けていなかった。

 会議の結果を受け、担当作家と見直し点の絞り込みなどをメールでやり取りしていて、午前中が終わった。


 有江は、お詫びの印に愛永まなえを昼食に誘った。

「アリエールも、まだまだ私には及ばないわね」

 今日の愛永は、ジョーゼットブラウスに黒のジャケットを合わせ、テーパードパンツという装いだ。ローファーを履いているが、身長が百六十八センチあるので、シュッと細い。そんな愛永にからかわれて、有江は嬉しかった。


 エレベータの下行きのボタンを押したとき、ベンチで仰向けに寝そべって本を読んでいるダンテの姿が、有江の目に入った。

 エレベータのガタンという音で、ダンテも有江たちに気がついた。

「有江さん、お待ちしていました。これは、こんにちは、仁廷戸じんていどさん」

 有江は、その苗字を呼ぶなとダンテに向かって念じた。

「仁廷……」

「ダンテさんは、そこで何しているのですか」

 有江は、ダンテの言葉をさえぎり話題を変えた。

「ダンテの『神曲』を読んでいます」

 これ以上、話をややこしくしないでと、有江は心の中で叫んだ。



「ダンテ先生も一緒にお昼ごはん、いかがですか」

「仁廷戸さんから誘ってもらえるなんて嬉しいですね。近くに美味しいパスタ屋さんを見つけましたよ」


 ダンテの案内で、駅方面に五分ほど歩き、通りの乾物屋と雑居ビルの間、人ふたりが並んで歩けるほどの路地に入った。五メートルほど先に進んで左に曲がると、すぐの突き当りに「リストランテ・フィオーレ」と書かれた看板を掲げた店があった。

 有江は、梶沢出版に入社して一年九か月が経ち、周辺の飲食店は網羅したと思っていたが、この店は知らなかった。地図アプリにも載っていない。

「こんなところにイタリアンのお店があるなんて知らなかったわ。新しくオープンしたのかしら」

 愛永も知らないようだ。


 店に入ると、昼食時にもかかわらず客は入っておらず、白のコック服を着たマスターがひとり、カウンターで皿を拭いていた。

 入って左手にカウンター席が五席、右手にテーブル席が二席とこぢんまりとした店だ。

「いらっしゃいませ」

 三人は、奥のテーブル席を案内された。

「こちらは『トリュフバターが香るマッシュルームのパスタソース』が絶品です。赤ワインが合います」

 メニューも見ずにダンテは料理を勧めてきた。


 ダンテがひとりで自由に行動できたのは、今日の午前中だけだ。マスターは表情ひとつ変えていないが、ダンテが今日この店に来るのは二度目だろう。「神曲」と「パスタ」と「ワイン」で今朝の一万円は使い切ったと有江は暗算した。

 有江と愛永はダンテのお勧めパスタを、ダンテは「野菜ときのこのニョッキ」を注文した。ワインは……とダンテが選び始めたので、有江がにらみを利かせ諦めさせた。


「ダンテ先生は『神曲』を読まれて、いかがでしたか」

 注文を済ませ、料理ができるまでの時間を愛永が埋める。

「美しくありません」

 ダンテは、眉をひそめて答えた。


 有江は意外に思った。自分はダンテ自身だと主張するこのダンテが、ダンテの代表作を「美しくない」と評価した。

「ダンテさん、なぜ美しくないのですか」

「トスカーナ方言で書いた『喜劇』は、十一音節で一行をなし、三行を一句とした三韻句法を用いています。ある句の二行目の脚韻は、次句の一行目と三行目の脚韻となるように書いています。例えば、地獄篇の冒頭三句は、


Nel mezzo del cammin di nostra vita

mi ritrovai per una selva oscura,

che la diritta via era smarrita.


Ahi quanto a dir qual era è cosa dura

esta selva selvaggia e aspra e forte

che nel pensier rinova la paura!


Tantʼ è amara che poco è più morte;

ma per trattar del ben chʼiʼ vi trovai,

dirò de lʼaltre cose chʼiʼ vʼho scorte.


このように各句の脚韻は、aaa、aea、eieと連鎖しています。それがどうでしょう、この『神曲』で辛うじて表現されているのは、三行を一句とする部分のみなのです」

 翻訳の限界ですねと愛永が同意した。

「美しくありません」

 ダンテが、厳しい口調で、また言った。


「それでも『神曲』は、文学史上最高傑作と認められています」

 有江がフォローするが、ダンテは納得いかない様子だ。

「その評価が正当なものだとしたら、それは原文に対してのものであって、翻訳文がそうであるわけではありません。これが最高傑作と言われて、納得する日本の人は何人いるでしょう」

 有江は、大学の講義での違和感が腑に落ちた気がした。


 沈黙が支配しかけたとき、タイミングよく料理が運ばれてきた。

 辺り一面にホワイト・トリュフが香り立ち、食欲を誘う。生パスタに濃厚な卵の風味とバターがマッチして、味はダンテの言うとおり「絶品」だった。


「ダンテ先生は、どのような作品を書かれているのですか」

 愛永のひと言に、有江はパスタをのどに詰まらせた。

「これから『神曲』を書き直すつもりです。日本での美しい『神曲』の復権を目指すのです」

 その気になっていると有江は思った。

「そもそも日本で『神曲』が認められたのは、明治時代の知識人と文学部の教授連だけじゃないですかね」

 愛永が突っ込む。

「いや、そんなことはないと思うけど……」

「それは残念です。そうであれば、なおさら、美しい『神曲』が日本で読まれるようにしたいですね」

「でも先生、三韻句法などの様式美にこだわり過ぎると、作品の主題がぼやけますよ。そもそも日本語で書こうとするのであれば、日本の様式にすべきで、例えば長連歌ちょうれんがとして五七五七七を百韻繰り返すとかしないと。しかし、そんな作品は売れないですよ。読まれない。作家の自己満足としか思えない。『神曲』だってエンタメ方向に振り切った翻訳なら、もっと大衆が手にするのに、最高傑作と持ち上げられて読みにくい三行詩のままだから、文学マニアしか目にしないのです。私が担当する作家連中のラノベの方が大勢に読まれてますよ」

 愛永の言葉はきついがまとを射ている。


 ダンテは、ニョッキを食べながら頷いている。単にニョッキが美味しい?

「美しい『神曲』ではなく、面白い『神曲』にしなければならないということですか」

 聞いていた。

「そうです、ダンテ先生。このアリーエ……いや、有江さんが担当編集者として全力サポートしますので、ぜひ面白い作品を私にも読ませてください!」

 これが、有江が学ぶべき、愛永が作家から慕われる理由だ。

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