第三十四話 世界の素はホラーの香り
「『OK』と返信しますか」
ダンテは、通信機に表示された「AROK?」を見ながら、有江たちに尋ねた。
「そうですね……わたしのことを『AR』と省略してきたので、多くの文字は送れないのだと思います。必要な情報を最小限の文字数で伝えるようにしましょう」
そうだねと西藤さんも同意した。
差しあたって、調世会に一番知らせたいことは、これだろう。
「SAITO」と返信した。
ダンテが通信機を操作しているのを見ながら、普通の機種は使えるのかと、有江は自分のスマホをポケットから取り出す。
電源は入るが、当然のように圏外だった。
「アンテナを探そうとして、余計に電気食っちゃいますから、通信機能はすべて切っておいてください。ローカルで使えるアプリ入っていますか」
西藤さんが尋ねる。
「仕事柄、辞書ソフトくらいですかね」
残りのアプリは、通信ができないことには使えない。
「では、地獄の門をくぐって行きますか」
西藤さんが一歩前に出たところを、ダンテは止めた。
「他の道を探してはどうでしょう。『神曲』では、この先、魔獣や悪魔が数多く登場します。安全な道を探すべきです」
しかし、西藤さんは首を横に振る。
「他に道があれば、ここに『地獄の門』は登場しないはずでしょ。これは、有江さんが最適化したルートか、神が示すルートかのどちらかなんですよ」
神と同列に語られ畏れ入る。
そうかもしれませんがと、ダンテはぶつぶつ言いながら西藤さんに続いて門をくぐる。
有江も、尻込みするモフ狼を押し、遅れまいと続いた。
門をくぐると、そこは大河の岸辺だった。アケローン川か、三途の川か。
水は悠々と流れ、ときおり風に吹かれた場所が白く波立つ。空は薄暗いが、大きく渦を巻いた雲の合間から、光が大地に注ぎ神々しい。地獄らしからぬ光景は、有江のイメージが反映されているのだろう。
風に運ばれる魂はなく、遠くに列をつくり一方向に歩く魂たちが見える。
「有江さんが描く地獄がこれで、安心しました」
ダンテは、ほっとしたようにつぶやく。
しかし、有江は気がついていた。
「ごめんなさい。わたし、ホラー映画マニアなんです」
有江たちは、岸辺を歩いているが、魂たちの列に近づくほどに、引き返したい気持ちが強くなる。
列をなす魂たちの歩き方は、ぎこちなかった。手と足は棒のように固く、一歩踏み出すたびにバランスを崩して身体が揺れている。
「あれ、ゾンビですよね」
有江が遠慮して言わなかったことを、西藤さんは口にする。
「たしか、ゾンビって生きている人間の脳を食べるんですよね。ダンテさんと有江さんは喰われるにしても、私はどうなんだろうな、死んでるしな」
「試してみましょうか」
呑気なことを言っている西藤さんに、ダンテがチクリと言う。
「そうですね。でも、喰われて痛いのも嫌だしな」
厭味は効かないようだ。
「気がつかれたら、襲ってきますよね。その前に川を渡る場所を探しましょう」
有江がそう言ったとき、川の中ほどから岸に近づいてくる小舟が目に入る。
小舟には、上半身も露わに櫂をこぐ男が乗っている。男がひと漕ぎするたびに、腕の筋肉は盛り上がり、小舟のスピードが上がった。
男は、ホッケーマスクを被っている。
「ジェイソン」に違いない。
岸辺を歩く魂たちが、小舟に気がついたようだ。列は一斉に向きを変え、有江たちに向かって歩き始めた。
「これはピンチですね」
相手の正体を知らないダンテでさえ、この状況はわかるようだ。
小舟は、間近に迫ったところで、川底につかえて止まる。
顔色の悪い魂たちは、口から緑のものを吐き出しているのが見えるほど、近づいている。
小舟の男は、櫂を置き一歩踏み出した。
「モフ狼、行け!」
ウォンと吠えながら、男に飛びかかる。
男はバランスを崩し、後ろ向きに川に落ちた。
「今です!」
有江の合図とともに、三人は小舟に乗り込みながら岸を蹴り、川の流れへと押し返した。
小舟は、有江たちを乗せ、滑るように岸から離れる。
「モフ狼~やるな~」
有江は、モフ狼を抱きしめ、顔を
男は、川から立ち上がり、まとわりつく魂たちを払いのけながら、こちらに向かって叫んでいた。
対岸、第一の圏は
「有江さんに『原罪』という宗教観はないので、すべての魂は通り過ぎるのですね。それで、いいと思いますよ」
ダンテは、しみじみ言う。
暗がりの中、坂を下っていく。
明かりのある場所へ出た。
第二の圏なのだろう。
そこには、見上げるほどの背丈の、おそらく、ミノスが立っていた。
ミノスは、立ち並ぶ魂たちを順に裁き、堕ちるべき圏を決めている。魂たちは、ミノスの前では恐怖のあまり生前に犯した罪を正直に話す。ミノスは、骨のような尾を自らの身体に巻きつけ、その回数で堕ちるべき圏を示していた。
有江たちに気づいたミノスは、裁きを中断し、
「グガガック、グガガッガアグア……」
何を言っているのか、わからない。
「ジャンルは、ホラーではなくSFだと思うんですよね」
呆れたように、西藤さんは言う。
「それにしても、有江さんの構築能力が強すぎて、冥界の住人でさえもイメージを変えられていますね。もっと力のある者が、本来の姿で現れて、言葉を発してくれないことには、なんのヒントも見つかりません」
さあ進みましょうと、西藤さんはひとり先に行ってしまった。
ミノスの話も途中に西藤さんの後を追う。
第二の圏は、肉欲に溺れた者が罰を受けている。
暗い空を見上げると、風に飛ばされている魂たちが見える。
魂たちは、風にさらわれ、地上から上空までいっきに連れていかれると、円を描いて互いにぶつかり合っては落ちていく。
昇っては落ちる動きを、永遠に繰り返していた。
「だれか、呼んでみましょうか」
ダンテは「神曲」でもしたように魂を呼び寄せるか尋ねたが、西藤さんは首を横に振る。
「ここの魂に話を聞いても、ゴシップや艶話しか聞けないでしょう。重要なことを知っているのであれば、同じ意識体の一部である私に、真っ先に共有されるはずです」
「そうですか」とダンテ。
「盛り上がりませんね」
小さくつぶやいた声が、有江には聞こえた。
空を飛ぶ魂たちが見えなくなったところで、ダンテは通信機を取り出した。「2」とだけ送信する。
有江もまた、スマホを取り出し、この世界の様子をメモした。
「記憶がなくなってしまうのなら、記録しておけばいいと考えますよね」
西藤さんは、有江に話し掛ける。
「冥界のことを知られたくなければ、神はメモする前の有江さんを元の世界に帰すこともできるんですよ。元の世界に帰れるとしても、ですが」
イメージしにくいが、時空を超越する世界であれば、できるのかもしれない。なにしろ、相手は神だ。できるのだろう。
再び歩き始める。
「目的を探るには、どこに向かえばいいのでしょうね」
有江の言葉を聞き、ダンテも不安を口にする。
「『神曲』の中では、私は神の意志によって冥界を巡りました。そこでは、ウェルギリウスに導かれ、ベアトリーチェから
ダンテは、うつむく。
モフ狼は、心配そうにダンテを見た。
厭味の効かない西藤さんが口を開く。
「だいじょうぶだと思いますよ。悪魔に取り入って冥界に入り込んだおふたりですが、その後も滞在し、こうして話していられるのも、神が許可しているからだと思うんですよね。神って、ここの統治者で、なんでもできるのだから、意向に沿わないなら、現世に戻すか、私と同じようにしてしまうとか、いくらでも排除できるはずなんです。いくら強い能力を持つ有江さんだって、神には勝てないでしょ」
「神様は、わたしたちを見逃しているということですか」
「そうです、そうです。見逃すにも理由があるので、今に、あちらから接触してくると思います。それまでは、ダンテさんの『神曲』をなぞって、有江さんの『地獄』巡りをするまでです」
西藤さんの説明はいつも軽いが、妙に説得力がある。
有江もダンテも反論できず、頷いた。
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