第三十五話 ケルベロスとプルートー
さらに坂を下り、第三の圏に着く。
空は一段と暗くなり、大粒の雨が絶え間なく降っている。
有江たちは、大きく弧を描くぬかるんで足場の悪い路をゆっくりと進んだ。
よく見ると、有江たちが歩く路には魂たちが折り重なって倒れている。魂たちは一様に泥にまみれ、今、踏んでいるものが、泥なのか、泥にまみれた魂なのか、見分けるのも難しい。
少し離れた場所で、突如、ひとりの魂が起き上がった。
その魂は、有江たちに何事か話そうと口を開く。
しかし、その瞬間、背後に現れた獣の鋭い爪が魂を引き裂く。
魂は、倒れたまま動かず、また、路の一部となった。
三つの頭を持つ地獄の番犬ケルベロスが咆哮する。
有江の背丈よりも大きく、開いた口は真っ赤に染まり鋭い牙が見える。眼は黄色に鈍く光り、それぞれの額に「6」という数字が刻まれている。漆黒の毛並みは、モフモフしている。
でも、可愛くない。
モフ狼は、うなり声をあげ、ケルベロスと対峙している。
「まったく面倒だな。ダンテさんも有江さんも、泥団子を作ってください。私だけ手が汚れるのも嫌ですから」
西藤さんは、足元の泥を丸め始めた。
できた三個の泥団子を、ケルベロスの三つの口に放り込む。
「ダンテさんの『神曲』をなぞりますが、これって、なんの儀式でしょうかね」
西藤さんが尋ねるが、わかりませんとダンテは答える。
そのやり取りの間にも、ケルベロスは静かになった。
有江たちは、ケルベロスを後にし、泥か魂かを慎重に見分けながら進む。
第三の圏を半周ほど進んだところで、ダンテは「3」と送信した。
第四の圏に降りる場所に着く。
そこには、大いなる敵プルートーが待ち受けていた。
プルートーは、
「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ」
プルートーは、悪魔を賛美する呪文を唱えた。
「先ほどは、我が愛犬ケルベロスに、よくも泥を食らわせてくれたな。貴様らの目的はわからぬが、ここから先に通すわけにはいかぬ」
「これは、展開が違いますね」
ダンテは、言う。
「プルートーは、ローマ神話に登場する冥界を司る神ですが、もとはギリシャ神話のハーデースなんですよね。『神曲』では、ここで活躍されても困るので、あっさり論破される役どころでしたが、ここでは違うようです」
そう話すダンテの鼻先を、バイデントがかすめる。
「ごちゃごちゃと、うるさいわ。立ち去るがよい」
「私たちの目的も知らないようですし……どうします? 戻りますか」
西村さんは、すでに半身を翻している。
「ダンテさん、プルートーの弱点を知っていますか」
有江は、期待するが、
「弱点は、ないですね……いや、あるかな」
ダンテの歯切れが悪い。
「この世界に招かざる者たちよ、これ以上留まるのであれば、どうなるかわかっているだろうな」
ダンテは、やれやれといった表情で一歩前に出る。
「プルートーよ、私たちが深淵に向かうのも
ダンテは、ウェルギリウスの真似をして告げた。
プルートーは、ダンテの言葉を聞き、黙り込む。
有江たちは、プルートの脇を通り、第四の圏へと降りた。
「メンテーとは誰ですか」
有江は、ダンテに尋ねた。
「プルートー、つまりハーデースは、ペルセポネーを誘拐して結婚したにもかかわらず、メンテーという女性を気に入って、こちらも誘拐しようと企んだのです。浮気ですね。しかし、ペルセポネーに気づかれてしまいました。怒ったペルセポネーは、メンテーを草『ミント』に変えたのです」
「その話を蒸し返すぞと、脅かしたのですね」
「人聞きが悪いですが、そのとおりです」
ダンテは、悪びれることなく答えた。
崖が途切れる岩間から、第四の圏の全景が見える。
第四の圏は、強欲と浪費の相反する罪を罰している。
反対側が霞んで見えないほど広大なこの圏の
金銭の欲にかられ不正に蓄財した魂たちが重りを押す。向かいからは、理性を失い散財した魂たちが重りを押してくる。
ぶつかると
「なぜ、貯蓄する」
「なぜ、浪費する」
互いが口々に叫び、向きを変えて取って返す。
圏の反対側で再びぶつかると、同じように叫び、向きを変えて戻ってくる。
滑稽だが、その動きを永遠に続けている。
「大玉転がしですね。勝負が決まれば魂たちもひと休みできるのに……こうも、生産性のない動きを続けるのも、難儀なことです」
西藤さんは、茶化して言った。
圏の反対側まで歩き、泉が湧き出す場所に着いた。
ダンテは「4」と送信する。
湧き出した水は、下の層へと流れ込んでいる。
有江たちは、流れに沿って道なき道を下りていった。
第五の圏は、一面が沼となっている。
ここでは、怒りに我を忘れた者たちが、怒りに満ちたまま魂となり、沼に沈められている。
沼は、
「さあ、怪物に襲われる前に、先に進みましょう」
西藤さんは、このシーンの元ネタがわかるようだ。
沼では、浮かび上がった魂たちが、怒りに身を任せ、殴り合い、嚙みつき合っている。それでも怒りが収まらない魂は、自らの身体をも搔きむしっていた。
有江たちは、魂たちを横目に、崖と沼の間のわずかな陸地に沿って歩き、高い塔の下にたどり着く。
塔から沼にかけて桟橋が張り出している。頑強な桟橋には、クルーズ船が停泊していた。
「ダンテさんと違って、有江さんの船は豪勢ですね」
西藤さんの言葉に、ダンテは顔をしかめた。
船員の姿は見えないが、有江たちは、ためらうことなく乗り込んだ。
甲板デッキから、船内フロアが見える。
中では、色とりどりに着飾った魂たちがダンスを踊っている。
「話を聞いてみましょう」
フロアに入ろうとするダンテを、有江は止めた。
「この先、まっぷたつです」
その言葉が合図であるかのように、ゴーッというモーター音が響き渡る。甲板デッキ後方のワイヤーロープ巻き取り機が激しく回転し始めた。
巻き取り終えても力は加わり続け、ピンと張ったワイヤーから、キリキリと軋む音が聞こえてくる。
限界を超えたワイヤーは、パシッという音を立てて横に滑り、中で踊る魂もろともフロアを輪切りにしていく。
「やはり、そうですか」
有江の声にかぶせるように汽笛が鳴り、何事もなかったように船は出港した。
船は進む。
甲板から、小さくなっていく塔を眺める。湖面には、船に巻き込まれ、ちぎれちぎれになった
「有江さんは、この地獄絵図を見ても平気なのですか」
ダンテに聞かれ、不思議なくらい落ち着いている自分自身を、有江は分析してみる。
「
「私は『神曲』でビビりまくっていました。有江さんには、安心感まであるのですか」
ダンテは、笑っている。
「この世界は、ダンテさんの『神曲』がベースで、わたしの好きなホラー映画で味付けされているので、次の展開も予想できるのです」
有江は、ダンテに説明しながら、この説明で間違いないと思った。
「私が安心しているのは、死んじゃっているからですね」
そう言って西村さんは笑うが、有江とダンテは笑えない。
気まずい雰囲気の中、タイミングよく、モフ狼がウォンと吠えて合図した。
近づく岸が見える。
ディースの都に着いた。
有江が下船する際にフロアを覗くと、魂たちはいつの間にか元どおりになって、ダンスを踊っている。この後、再び切断され、苦痛を味わうのだろう。
それが、恐怖であり、平気でもある理由なのだ。
着岸した桟橋は、固く閉ざされた城門を備える鉄の城壁へと続いている。
城壁の上には無数の悪魔がとまり、有江たちを見下ろしていた。
「この後、いよいよ、天使が登場して私たちの旅の目的が明かされるのですね」
西藤さんは、またしても、ダンテに遠慮することなく『神曲』のあらすじを披露してしまう。
有江は、ダンテを見るが、そんな西藤さんに苦笑いしているだけだった。
ダンテは、天使を待つ間に「5」を送信する。
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