第七話 事故物件を契約する

「今朝、ネットカフェの小池さんに『ダンテさんは、いつイタリアにお戻りなのですか』と聞かれました」

 会うなり、ダンテからの仰天発言だ。

「なんて答えたのですか」

「ぼんやりしていたので『戻る方法が見つかれば戻ります』とつい正直に答えてしまいました。でも、小池さんは笑っていたので、だいじょうぶだと思います」

 いや、通報案件だと有江は思った。

 ネットカフェに寝泊まりしている外国人が、そんなことを言えば、間違いなく不法滞在だと思われる。


「ちょっと待っていてください」

 有江ありえは、ダンテを置いて急いでネットカフェに行き、受付の小池さんに、ダンテはイタリアに帰ります、お世話になりましたと早口で挨拶した。通報されて警察から連絡が入ったら、理路整然と説明できる自信は有江にはない。

「さて……」

 今日は、ダンテの衣類を洗濯している間に新しい服を買い足す予定でいたのだが、そうはいかなくなった。

「住まいを見つけましょう」


 お金が足りるかダンテは心配したが、心配すべきは契約、身分証明書がまた必要になってくることを説明した。

 有江には、考えがあった。


「ダンテさんが、本格的に執筆するのであれば、梶沢出版に近い場所に住んだ方が便利ですね」

 ダンテは、首を横に振る。

「いや、有江さんの住む街で探しましょう。私が現れた街です。元の世界に戻るヒントがあるかもしれません」

 そうかもしれないと有江も思った。しかも、ここより都心から離れている分家賃が安く、大学があるため学生向けのアパートも多くて好都合だ。


 有江の住む街に戻った。

 駅前のコインランドリーにダンテの洗濯物をセットしてから、不動産会社を検索する。


 駅近くのマンションの一階テナントに「みなとがわ不動産」と大きく書いた看板が掲げられている。サッシドアを開け「すみません」と声をかけると「はいよ」と野太い声がして、仕切りの奥から髪が薄くなった小太りの男性が現れた。

 男性は、社長の湊川みなとがわですと名刺を差し出した。

「どんな物件をお探しですか」

「アパートを借りたいのですが」

 有江がそう答えると、社長は面倒くさそうにカウンター下から何冊ものクリアファイルを出してカウンターに置いた。

「おふたりでお住まいですか」

「そうです」

「ご関係は?」

「婚約者です」

 社長は、ふーんという顔をした。訳アリであることは、察してくれたようだ。

「ご希望の間取りはありますか」

「お恥ずかしい話なのですが、間取りよりも家賃を優先してお願いします」

 そうですかと言って社長が取り出したファイルの一番目の物件が有江の目に留まる。

 賃料二万八千円に管理費三千円のワンルーム。「波風荘」というアパートだ。

 ページをめくろうとする社長の手を止めた。

「この物件はね……」社長は何か言いたげだ。

 月三万一千円は、このエリアにあっては格安だ。有江のアパートもワンルームだが、家賃は六万七千円になる。

 駅まで歩いて八分。住所は、何かあった時でも有江のアパートから二、三分で駆けつけられるほどの近所だ。敷金、礼金はなし。築三十三年だが、ダンテは七百年以上も前からやってきたと言っているのだから、十分に新しい。

 それでも相場よりかなり安い。有江がいぶかしく思いながらファイルを読み進めると、備考欄に「心理的瑕疵物件」と赤字で書いてあった。いわゆる「事故物件」だ。

「決まりなので、説明しておきますが……」

 ダンテは、店では黙っているようにという約束を守って、社長の説明も黙って聞いている。

 有江は、ダンテの横顔をうかがうが、嫌そうな表情はしていない。地獄を見てきたダンテなら平気なのだろうと、有江は勝手に決め込んだ。

「ここにします」

 社長は不審死がどうのこうのと話していたが、即決した。


「それでは、部屋の方をご案内しますので、店先でお待ちください。車をまわします」

 店先に出て待っていると、ドアに「みなとがわ不動産」と書かれた車を社長が運転して現れた。


 駅から徒歩八分なのだが、車だと一方通行を回り込むため十五分かかった。

 その物件は、二階建てのアパートで階ごとに五部屋ある。一階の一番西側一〇五号室がその部屋だそうだ。

 その部屋は、いたって普通のワンルームの間取りで、洋室六畳にバストイレ、キッチンが備わっている。

「ダンテさん、どうですか」

「ネットカフェより広いですね。ここにしましょう」

 社長に聞かれたはずだが、社長は何も反応しない。聞こえないふりをしているようだ。

 

 有江は、そのアパートから、手続きに必要な印鑑を取りに自分のアパートに戻った。

 社長に、この近くの駐車場に入れた車に印鑑を忘れてきましたと伝えると、車をお持ちなのですかと尋ねられたので、いやレンタカーですと答えた。顔に嘘ですと書いてあった。

 それでも社長はふーんという顔をしている。


 有江が印鑑を取って戻ると、社長とダンテは車に乗って待っていた。ダンテはアパートのことよりも車のことを社長に聞いていたようだ。

 帰りは、五分で戻った。

 有江が契約者となり、今は使っていないネットバンクの口座から賃料を引き落とす手続きを取った。

「それでは、こちらに押印をお願いします。電気水道ガスの手続きは、このQRコード先で手続きできます。では、こちらが鍵となります。何かありましたら、いつでもご連絡ください」


「月に三万一千円の賃料は、ネットカフェ十日分以下なので、かなり節約になりますね。六年間は生活できそうです」

「節約にはなりますが、生活するための雑貨や寝具が必要ですし、毎月、電気水道ガスの料金がかかるので、計算ほど上手くいきませんよ」

 有江は、この一年間、まったく貯金が増えていないので、身を持ってそう言える。

「アパートの電気などの手続きは、わたしが今晩しておきます。そう『電気』というのは……」

「だいじょうぶです。みなとがわ社長に聞きました」

 社長は、訳アリにもほどがあると思ったはずだ。



 駅に戻ったときには、午後四時を過ぎていた。

 ダンテは、コインランドリーで乾燥した洗濯物を回収する。

「それでは、私はネットカフェに戻ってゆっくりすることにします」

「ダンテさん、それ無理です」

 有江は、今朝の顛末てんまつをダンテに説明した。

「そうでしたか、それは、ご迷惑おかけしました。別のネットカフェにしましょうか」

「この街には、ネットカフェはないのです」

 そう言って、有江がスマホを取り出し検索しようとしたとき、電話の着信メロディが鳴り、画面上の指は電話の応答を許可していた。

 有江は、あわてて電話として持ち替える。

「あっ、はい、栃辺とちべです」

「もしもしアリエス、愛永まなえです」

「愛永さん、こんにちは」

「今、何してるの」

「えっ、ダンテさんのアパート探しをお手伝いしてまして……」

「ダンテ先生も一緒なんだ。今から行っていい? どこにいるの」

 愛永が来るという。土曜出勤してひと仕事片付いたので、一杯飲みたいそうだ。

 地元駅にいることを伝えると、すぐ行くと言う。有江が、地元神社の初詣に誘ってからというもの、愛永はこの街を気に入っている。


仁廷戸じんていどさんは、休みの日に独り働いて、寂しい思いをしていたのですね。せめて、仕事上がりは、お付き合いしてあげましょう」

 話を聞いたダンテは、なんて寂しいことでしょうと、いたく同情している。

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