第二章 第三節 闇に呑まれてしまいそうな、そんな感覚に陥る声がした
「……もういいかい?」
前方から聞こえた声に、はっと意識を引き戻される。
「お前は相変わらずだね。目の前のことに集中せず、すぐに自分の中へ入って戻ってこない。フードを被っていてもわかる。いつもなら苛立つところだけど……、今日の僕はとても気分が良いんだ。君のその態度も許してあげるよ。ああ、フードを被っていることも、喋らないことも、許してあげようじゃないか」
朗々とした声が聞こえる。こんな声は、彼と出会ってから初めて聞いた。雰囲気から感じた通り、シュヴーは今、上機嫌なのだろう。
更に、機嫌が良いからか、途轍もなく寛容なことを言っている。普段なら、苛立った時点で手や足が出ているはずだが、今日はそれがない。フードや、喋らないことについても、構わないと許容している。
(いけない、また悪い癖が……。殴られたり、フードを取られたりしなくて本当に良かったわ。ここからはしっかりするのよ、あたし)
上機嫌、といっても、いつそれが変わるかはわからない。メルツは気を引き締めた。
「さて、早速だけど、お願いがあるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、メルツに緊張が走った。
(……お願い? 嫌な予感しかしないわ)
シュヴーが何を言い出すのか、警戒しながらも耳を傾ける。
「なに、簡単さ。シュルマの森へ行ってほしいんだ。なんでも、万病に効く薬となる花が咲いた、という話があってね。だけどその場所は、どうやら森の端にあるようなんだ。普通のやつなら行くことはできない。けど、浄化スキルを持ったお前なら、このくらい余裕だろう?」
声しか聞いていないが、想像できる。きっと彼は今、メルツのことを嘲笑ったような表情で見ているのだろう。
(あの、穢れたシュルマの森にそんな花が咲いたなんて、聞いたことも無いけれど……。あたしが知らないだけ? でも、万病に効く薬を作れるくらいのすごい花なら、市場で噂になっていてもおかしくないわよね。そんな話は聞こえてこなかったけど……。うーん、でも今朝は、かなり考え事に没頭していたから、聞き逃していた可能性もあるわよね……)
孤児院からほど近い南の郊外にあるシュルマの森は、メルキュール王国にある穢れが蔓延している土地の中でも、特に穢れが強いことで有名だ。騎士団も手を焼いているようで、国民に対しては、近づかないよう通達が出されている。
そんな穢れた森に、果たしてそのような花は咲くのだろうか。そして、浄化スキルを持っているからといって、騎士団でも手を焼いている場所へ行って、無事で済むのだろうか。
メルツは、シュヴーの話を訝しんだ。
そもそも、その薬が必要となるような患者は、孤児院にいない。そのため、取りに行く必要性もわからない。
(シュヴーの嘘、って可能性が高いわよね。でも何のためにそんな嘘を? 何か企んでいることは間違いないだろうけど……)
メルツが、シュヴーの意図について思案し始めたとき、
「ああ、安心してくれ。もし見つけられなかったら、それはそれで仕方がない。シュルマの森近辺に生えている、代わりの植物を取ってきてくれれば、それで構わないよ」
まるで、思考を遮るようにかけられた声は、どこか甘ったるく、それでいて冷たい。
メルツは、自身の背筋が粟立ったのを感じた。
(……どうやら目的は、花じゃなくてあたしを森へ行かせることみたいね。でも、理由がわからない。森へ行かせて……攫うとか、襲うとか? けれど、そんなことをしたら、ピュリファイアの話もあるし、院長の思惑から外れることになる。院長の言うことには従っているみたいだし……。いや、まあ、顔は殴られたけれど。でも、仮にも一緒に育ったんだから。うん、流石にそんな真似はしないわよね。普段の嫌がらせや暴力とは、レベルが違うもの)
シュヴーの発言に対し、必死に頭を回転させて考える。なんとなくだが、この件は、とても重要なことのように思えてならないのだ。
だが、考えてみても、一向に彼の目的が見えてこない。森へ行くことが、一体何の嫌がらせになるのだろう――。
「……ん? 了承の返事がないようだけど? あはっ。まさかお前、断る……なんてことはないよね? わかっているとは思うけど、返事は一つだけだよ」
またしても思考を遮られる。
その遮った声は、愉快そうではあるが……、その中に、微かな苛立ちが含まれているように感じた。
そして一転、
「さあ、さっさと頷け」
深くて暗くて怖い。まるで、闇に呑まれてしまいそうな、そんな感覚に陥る声がした。
身体が竦む。思考が鈍くなる。
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