第一章 第五節 『どんな困難が自分の前に立ち塞がっても、忍耐と前向きさを持っていれば、きっと光は見えてくる』

 孤児院内の人間は、どんなことでもシュヴーに追従するため、例えメルツのこの顔を見ても、助けてくれる者はいない。彼の怒りを買う方が嫌だからだ。そのため、皆、見て見ぬふりをする。

(まあ、下手にあたしと関わって状況が悪化するくらいなら、見なかったことにしてもらった方がよほど良いわよね。あたしのせいで誰かが折檻されるのも嫌だし。あたしは……、我慢できるから。――シュヴーや、あたしのことをよく思っていない子たちからの刺すような視線は、しんどいけど)

 我慢はできる。だが、何も感じないわけではない。

 ただ、それでも。

(『どんな困難が自分の前に立ち塞がっても、忍耐と前向きさを持っていれば、きっと光は見えてくる』――よね)

 この言葉は、いったい誰から贈られたものだったか。思い出せない。けれども、ずっと胸の中に強く残っている。

 メルツは、この言葉に従って、これまでずっと耐えてきた。

(勝手な行動をしないように、好奇心に負けないように。顔色を見て、我慢して。孤児院に迷惑をかけないように、折檻されないように。――シュヴーの癇に、できるだけ障らないように。気をつけてきたわ。嫌がらせにも、暴力にも、耐えてきた。孤児院に来て十年、耐えてきたのよ)

 そうして、あと少し、あと二日で、孤児院を出られると思っていた。

 なのに。

(……院長に従えば、きっと騎士団へ入ってからも、何かにつけて孤児院の厄介ごとを押し付けられるに違いないわ。そうして、せっかく院を出られても、彼に縛られる生活が続いてしまう。そして、孤児院との関わりが続くということは、シュヴーからの嫌がらせも続く可能性が高い、ということよ)

 そう、結論は出ているはずだ。

 騎士団向きの人材ではなく、これからも孤児院に、――院長やシュヴーに縛られ続けるのは嫌。

 つまり、今回の件は従わない。当初の予定通り、孤児院を出て職を探す。これが正解のはずだ。

(――でも、確かに、あたしがここまで生きてこられたのは、この孤児院があったから。捨てられた幼いあたしを、ここが引き取ってくれたから。それは事実。……ここで従わなかったら、恩を仇で返すような真似になる? できれば、そういうことはしたくない、けど。やっぱり、言う通りにするべき? それしかない?)

 ずっと考えているが、いつまで経っても結論が出ない。思考も感情も、堂々巡りに陥っている気がするが、止められない。――そのまま更に思索に耽る。


「危ない!」


 突然、鋭い女性の声が耳に入った。

 瞬間、メルツの右腕が思い切り右へ引っ張られ、身体の重心がそちらへ持っていかれる。

 メルツは、急に引っ張られたことに驚きつつも、たたらを踏んで態勢を立て直した。

 引っ張られた際に下がった目線の先に、自身の右腕と、それを掴んでいる黒い布に覆われた華奢な手が見えた。

 何が起こったのか、と思いつつ、その手を辿って顔を上げる。

(う……わあ……)

 思わず目を見開く。同時に、表情筋も動かしてしまい痛みが走る。

 しかし、そんなことは気にしていられない。何せ、目の前に現れたのは――女神様だった。

(え? なに? なんであたしの目の前に女神様が……?)

 よくわからず、思考が混乱する。

 女神様は、お尻くらいまである濡羽色の美しい髪をハーフアップにしており、そこに花のデザインの髪留めを着けている。耳の下くらいまである前髪は左側で分けられており、瞳は、赤のようなピンクのような不思議な色合いで、キラキラ煌めいている。それはまるで、光に当たったクリスタルのようで、いつまでも見ていたくなる。

 右耳に着けているピアスの石も、藍色のような紫色のような色合いで、瞳と同じように美しく、とても綺麗だ。

(服もすごい。洗練されたファッションって、こういうことなのかも。それに、スタイル良すぎ。……手の黒い布はアームカバーだったのね。二の腕の方にレースも入っていて、すごく素敵だわ)

 思わず、じっくりと見てしまう。身に着けている物全てがお洒落だ。

 黒とゴールドを基調とした、右腰の辺りに大きくスリットの入ったワンピース。着こなすのは難しそうだが、彼女は難なく身に纏い、そのスタイルの良さを際立たせている。黒のパンプスは、ゴールドのチェーンによって足首で固定されており、黒の太股丈のソックスと合わせた際、差し色になり、煌やかに感じる。また、ソックスの太股辺りにも、アームカバーと同様に繊細なレースが施されているようだ。

 全体的な色気と上品さ、そして不思議な色味の瞳と美貌が相俟って、崇高な芸術品を見ているような気分になる。

 なんだか良い匂いも感じ、頭がクラクラしてきたような気も――。

 と、そこで、彼女が心配そうな様子でこちらを見ていることに気がついた。

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