第三章 第一節 胸が痛くて、たまらない
孤児院から歩いて、シュルマの森の外側に到着したメルツは、森の不気味な雰囲気に、肌が粟立つのを感じた。
(市場で度々話は耳にしていたけれど、魔物のことが中心で、森自体についてはあまり聞いたことがなかったわ。今回初めて来たけれど……、こんなにも恐ろしく感じる場所だったなんて)
鬱蒼とした森の周囲に広がる平原を含め、辺りに生き物の気配はない。風が吹いていないからか、木々の揺れる音もしない。異様なほど静かだ。森を見ていると、何となく不安や恐怖心を掻き立てられるこの感じは、孤児院の裏手に通ずるものがあるように思う。
穢れが蔓延している森のため、国民には近づかないよう通達が出されているが、例え通達が無かったとしても、「近づきたくない」と思わせられるような場所だ。
(日中、魔物は森の外に出てこない、とは聞いているけれど、森自体が怖すぎるし、早くアドラシオンを取って帰ろう)
加えて、騎士団の巡回との鉢合せにも気をつけなくてはならない。見つかれば、大事になり、院長の耳にも入ってしまうだろう。そうすれば、きっと折檻されてしまう。それは回避したい。「シュヴーに言われたから」などの理由は通用しないのだ。
(近づいてはいけないって言われている場所に来ているのは事実だし、どう考えても悪いことをしているのよね。……ううん、来ちゃったものは仕方がない。とにかく急ごう)
嫌な想像と、国の規則を破っている罪悪感に蓋をして、目的を達成することに意識を向ける。
フードを少し上げ、改めて森の周辺を見回すと、メルツが立っている位置と森の入り口のちょうど真ん中くらいに、紫に近い淡いピンクの花が見えた。
(あれがアドラシオンね。良かった、ちゃんと見つかって)
話には聞いていたが、実物を見たことがなく、実は少し不安だったのだ。無事見つけることができて、メルツの胸中に安堵感が広がった。
花を目指して歩く。
が、少し進んで、その歩みを止めた。
(あれ……、この森の周り……靄……?)
先ほどまでは、爽やかな秋晴れと対照的な印象の、不気味で、鬱蒼とした広い森だと思って見ていた。
しかし今は、その森全体を覆うように、黒い靄が見える。
(この靄、どこかで見たような――)
そこで、孤児院を出る前に見たシュヴーのズボンが、メルツの脳裏をよぎる。
(え……? 待って、確かシュヴーのズボンの周りにも、似た感じの靄があったわよね? そして、目の前の森は『穢れの森』で……。つまりシュヴーは――)
「グルルルル……」
背後から聞こえた唸り声に、はっと意識が引き戻される。
背筋に冷たいものが走り、心臓がバクバクして、冷や汗が止まらない。
嫌な予感を抱えつつも、メルツは恐る恐る振り――思わず目を見開く。
そこには、メルツが今まで出会ったことのない生き物――魔物がいた。
銀の毛に、赤い瞳の、狼のような見た目で、二メートルくらいの大きさはありそうだ。その身体の周りには、シュルマの森同様に、黒い靄が見える。恐ろしく凶暴な顔で、嚙みつかれたらひとたまりもなさそうな歯を見せながら、唸り声を上げてこちらに狙いを定めている。
(な……んで、昼間には出てこないはずじゃ――)
疑問が沸き上がる。さっきまでは生き物の気配など全く無かったというのに、どこから現れたというのか。それとも、思考に耽っていたせいで、魔物の接近に気づかなかっただけなのか。
(ってそれよりも、この状況って何とかできるの? 完全にロックオンされているわよね?)
この状況を脱する方法が全く思いつかない。騎士団の人に助けを求めようにも、今どこを巡回しているのかわからな――。
(――はは。なんだ、そういうこと。あたし、完全にシュヴーに嵌められたってわけね。だから、あんなに上機嫌だったんだ)
メルツは、この状況を正しく理解した。理解したからこそ、思考が、感情が、一気に押し寄せてきて、ぐちゃぐちゃになる。
(シュヴーがあたしを、ここに来させた目的。それは、あたしを殺すこと。一緒に育った相手にそこまでのことはしないだろう、って思っていたけれど、この、まるで見計らったかのようなタイミング。偶然にしては、出来すぎた状況。流石に、『シュヴーは関係ない、たまたまだ』って言うには、無理があるわよね。加えて、あの上機嫌。何か企んでいるとは思っていたけれど、これだったってわけね)
シュヴーのことだ。恐らく、すぐにここへ向かわせたのも、この時間帯に騎士団がこの場所を巡回しない、と知っていたからだろう。
つまり、騎士団へ助けを求める、という選択肢は消えた。
(それに魔物なら、事故死扱いされる確率が高いわ。ここへ来た理由も、知っているのはシュヴーしかいない。口を噤んでしまえばそれで終わり。あたしは、勝手に森へ行って運悪く殺されてしまったってことになる。魔物をどうやって誘き寄せたのかはわからないけれど……。ほんと、嫌になるくらい上手く考えられているわね)
こんな状況なのに、思考が回る。どこか、他人事のようにも思えてきた。
(にしても、まさか殺したいほど嫌われていたなんて。これでも、自分なりに色々と、一生懸命頑張ってやってきたんだけど、意味が無かったってことね)
どうやら、殺したいほど嫌われていた、という事実に、想像以上に衝撃を受けているようだ。――胸が痛くて、たまらない。
これまでの頑張りが意味のないものだった、と考えると、言いようのない気持ちと、涙がせり上がってくる。
(やっぱり、決定的な出来事は、あたしが浄化スキルを得たからなんだろうけれど。こんなことになるなら、浄化の力なんかいらなかったわ。今だって、魔物をどうにかすることもできない。浄化の力を持っているだけじゃ、意味がない。戦うか、逃げる力がないと)
メルツは、そのどちらの力も持っていなかった。
せめて魔法が使えれば、勝てなくても、逃げられなくても、耐えて救援を待つ、という選択肢ができたかもしれないが、それも無理な話だ。
身体は、凍り付いたように動かない。まだ生きていることが、奇跡だ。
だが、それも時間の問題だろう。
(どうかせめて、痛みは一瞬でありますように)
無理な願いだろうと思いながらも、メルツは、諦めたように目を閉じ――その際、魔物がこちらへ飛び掛かってくる姿が見えた気がした。
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