第五章 第一節 油断は禁物だろう

 誕生日前日の夜。

 孤児院へ戻ってくると、玄関前の開けたスペースに、院長とシュヴーが立っていた。

「メルツ! 心配したぞ。今までどこへ行っていたんだ!」

 渋くて、重厚感のある、男性の声が辺りに響く。しかし、夜ということもあってか、いつもより声の大きさは控えめだ。

 メルツは、会話する距離として違和感を持たれないくらいの、ギリギリのラインで立ち止まった。

 屋根と玄関扉の間に埋め込まれている時計を、ちらりと確認する。

 時刻は、二十三時三十分を表していた。ただ、建物と同様に、時計も古いため、時間がずれていることも多い。そのため、この時刻も、どこまで正確かはわからない。

 だが、確実に言えるのは、森へ向かうために孤児院を出てから、一日半程度の時間は経っている、ということだ。

「ただいま帰りました。心配をおかけして申し訳ありません」

 メルツは、露ほども思っていない言葉を、淡々と返す。

 反抗的な態度と判断された場合、折檻が待っている。――従順な態度を示すため、できるだけ感情を表に出さないような対応が良い、と学んだのは、いつの頃だったか。

(でも、おかしいわね……。てっきり、近づいてきて殴りかかってくると思っていたのに)

 利用しようと考えていた人間が、突然行方をくらませたのだ。いつもであれば、それにより発生した不快感を、容赦なくメルツへぶつけているはず。

 しかし今は、その場から動かず、表面上ではあるが、心配の言葉をかけている。

(取り繕っている……ということは、もしかして、こちらの動きに気がついている?)

 院長がそのような言葉を口にするのは、決まって、孤児院外部の第三者が居るときだ。

 今、メルツは、茶色のマントを身に着けているが、フードを被ってはいない。つまり、怪我の治った顔を晒している状態だ。

 メルツが顔を殴られたことは、院長も耳にしているはず。治っていることに対する反応は見られなかったが、そこから、第三者が関与し始めた、と推察したのだろうか。

(――いえ、気づいていても、いなくても、あたしのやることは変わらないわ)

 それに、例え気づいていたとしても、この状況をひっくり返すことは困難なように思える。――が、油断は禁物だろう。

(いつもより注意深く観察しないとね。ちょっと……いえ、かなり見えづらいけれど……)

 門から玄関にかけて明かりは灯っているが、かなり薄暗い。

 節約という観点から、全ての照明の明るさが最低限なのだ。時計は、時刻を判別できるギリギリの明るさ、道を照らす照明は、歩けるギリギリの明るさ、といった具合だ。

 その上、院長は、黒の立襟のコートのような祭服と、同色の革靴を履いており、真っ黒な出で立ちだ。きっちりと七三分けされた焦げ茶色の髪も、浅黒い肌も、服と共に、夜の闇に馴染んでしまっている。

 そのため、髪と同色の、冷酷さを感じさせる瞳も、こちらを萎縮させるような鋭い目つきも、皮肉気な笑みを浮かべていることが多い口元も見えづらく、壮年の顔に浮かぶ表情の変化が読み取りづらい。

 そして、更にわかりづらいのは、院長の右手に立っているシュヴーだ。

 変わらず、髪も瞳も服も靴も、全てが真っ黒。反対に、肌の色は、生気を感じられないくらい真っ白。

 古びた孤児院の建物は、夜になると不気味さを感じるため、それを背景にして立たれると、正直、悪霊か何かが現れたように見えてしまう。――怖い。

(……もっと怖いのが、微動だにしなくなったことよ)

 シュヴーが、メルツを見た瞬間、驚いた表情をしたのは見えた。が、すぐに顔を俯け、それから動かなくなってしまった。

 ……驚いたのは、怪我が治っていることについてか、それとも生きていることについてか。――恐らく、後者だとは思うが。

(何をしてくるかわからないから、きちんと警戒するのよ、あたし。冷静に、ね)

 メルツが内心、警戒度合いを引き上げていると、しばらく無言だった院長が口を開いた。

「いや、いい。それで、質問の答えは」

「はい。ピュリファイアの試験を受けてきました。無事、合格し、銅のバッジも取得しました」

 その言葉と共に、パーカーワンピースのポケットから銅のバッジを取り出し、左手で掲げる。

 銅のバッジは、試験合格の証であり、見習いピュリファイアである、ということを示すものでもある。

 正式にピュリファイアを名乗るためには、指導官の前で穢れを浄化し、合格を――一人前の証である銀のバッジを貰わなければならない。

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