第四章 第一節 この場所がどこなのか、全く見当がつかない
ふと、香ばしい匂いを感じた。
(これは、珈琲の……香り……?)
飲んだことはないが、嗅いだことはある、黒いような茶色いような飲み物の香り。院長の部屋では、よくこの匂いが広がっていた。だが、そこで嗅いだものよりも、更に濃い気がする。
(なんだか、落ち着いた気持ちになる……。ってあれ? あたし、今、寝ているのよね……? なんで珈琲の香りが……?)
メルツの部屋に、珈琲の香りがする要素は無かったはず。古い建物のせいか、掃除をしても、常に埃っぽい匂いがする状態だ。
(それに、なんだか寝心地も良いような……柔らかい感じで……気持ちいい……)
部屋のベッドは硬かったはずだが、今はとても柔らかく感じる。できればこのまま、ずっと眠っていたいほどだ。
(そもそもあたし、いつ寝たんだっけ……?)
眠りに就く前の記憶が思い出せない。昨日は、いつベッドに潜り込んだのか……。
上手く回らない頭を使って、寝る前のことを思い出そうと――。
「――っ!」
脳裏に凶暴な狼の顔が映し出され、メルツは跳び起きた。
緊張や、不安などの感情が一気に押し寄せ、顔や身体は強張り、心臓が激しく脈打つのを感じる。息も詰まった感じがして、少し呼吸が苦しい。
だが、急いで開いた目には、魔物の姿は映らなかった。代わりに視界に入ったのは、全く見覚えのない壁。
そのまま辺りを見回すが、魔物はいないように見えた。
――詰めていた息をゆっくりと吐きだす。まだ心臓がドクドクしているのを感じるが、顔や身体の強張りは少し解れた気がする。
(一先ず安心していいのよね? ここがどこかはわからないけれど……もし危ない人たちなら、こんな風に寝かせてはもらえないだろうし。――それにしても、今まで見たことがない感じの場所だわ)
一旦、危機は去ったと考え、改めて周囲を観察する。しかし、この場所がどこなのか、全く見当がつかない。
メルツが寝ていたのは、二人掛けの焦げ茶色のソファだった。しかし、寝心地は大変良く、メルツの部屋のボロボロのベッドよりも、身体が休まった気がしている。そして、掛けられていた毛布もふわふわで、思わず頬擦りをしたくなる柔らかさ。孤児院のごわごわした毛布とは雲泥の差だ。
メルツが眠っていたソファの向かいには、木製のローテーブルを挟み、一人掛けの黒茶色のソファが二脚。内、メルツから見て右側のソファには、身に着けていたマントが綺麗に畳まれて置かれている。その後ろには、収納スペースのように見える場所がある。しかし、これまで見たことがないデザインだ。
そして、跳び起きた際、目に飛び込んできた壁。これも、見たことがない意匠だ。白い壁と、格子状の木材が組み合わさっているようだが、この白い壁に違和感を覚える。壁にしては薄い気がするのだ。
(あたしの行動範囲が限られていても、こんな明らかに王都の雰囲気と違う場所があれば、どこかで話題くらいは聞こえてくるはずよね? 例えば、市場とか。個人の家だったとしても、建てるときに話に上がりそうだし……。うーん、市場でも話題にならないくらい、遠い場所とか?)
改めて、王都の建物などの特徴について、思い起こしてみる。
王都メルクリウスは、中心部にある城の外観に合わせ、壁は白やクリーム色、屋根は青や緑色系統の建物が多い。そして内装も、壁や屋根の色が選ばれやすくなっている。
しかし、この空間は、茶色系統を基調としており、壁のデザインなども含め、初めて見るものばかりだ。「異国に来た」と言われた方がしっくりくるまである。
――本当に異国だったらどうしよう、という不安が、一瞬頭を過った。
だが、すぐにその考えを打ち消す。異国へ、メルツだけを誘拐するメリットが思い浮かばないからだ。
身代金目的であれば、孤児院暮らしのメルツは狙わないだろう。孤児が目的であれば、メルツだけを攫うのは解せない。
他に攫われた人がいるのか、と考えたが、姿は見えない。
仮に、攫われた人間は別室へ集められていて、メルツだけたまたま、まだここに居たとして。攫ってきた後、縛りもせずに放置など、あり得るのだろうか。
そういった点から、異国へ誘拐説は低いように思える。
そんなことを考えている間に、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。目覚めた時に暴れていた心臓の鼓動も、随分穏やかになった。
誘拐の可能性が完全になくなったわけではないため、油断はできない。それ以外の危険が潜んでいる可能性もある。本来なら、今すぐにでも逃げるべきなのだろうが……。
メルツは、どうしてもそういった気持ちになれなかった。
ここの、落ち着く雰囲気がそうさせるのだろうか。
それとも……。
綺麗に畳まれたマントへ、視線を向ける。
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