アンビシャス/小説・相馬黒光 🥻
上月くるを
第1話 プロローグ/碌山美術館への道 ⛪
高さ比べに敗れた富士山の女神に棒で叩かれたから、あんなにデコボコになったという伝説の八ヶ岳が後方に飛び退ってしばらくすると、右手の視界が朗らかに開け、澄みきった瑠璃色の空をきれいに映す大きな水たまりが忽然と出現する。諏訪湖。
その先の岡谷ジャンクションで伊那路からのルートと綯われ、さらに木曽路方面に分岐する塩尻インターから松本インター方面へなだらかな起伏を舐めて走らせると、はるか西空の高みにゴツゴツと鋭い稜線を連ねる北アルプス連峰が浮かんで来る。
安曇野インターで一般道に降りると、かつて飛騨山脈と呼ばれた三千メートル級の連山が大迫力でせまって来るが、それもつかの間、一路、西方へと導かれるにつれ、眼前をさえぎる前山がぐんぐんとズームアップして、北ア連峰はうしろに隠れる。
田舎を知らない都会人にはそれだけで十分にラディカルな展開だったが、JR大糸線穂高駅に近い美術館の駐車場にニューバランス幅広スニーカーの靴底をのせると、聳え立つ鋼鉄製の屏風のような山容に威圧された全身に、すうっと冷えが奔った。
*
プロダクション勤務を経てフリーライターをしている真理絵に大学の先輩の編集者から声がかかったとき、ありがたいお話ではあるけど、期待に添えるかしらと怯んだのは『近代を先駆けた女性たち』というシリーズ企画名の大時代な印象からで……。
「大丈夫だって、真理絵の筆力はおれが太鼓判を押すよ。それよりなにより、いい歳して青くさい(笑)正義感? あんたが好きな戦国時代でいえば義の心ってやつ? そいつが強いやつほどこの企画にふさわしい、っていうか、でなきゃ駄目なんだよ」
上手にくすぐられて「じゃあやってみますか。だけど、もし、わたしの担当巻だけ売れなかったりしたら?」「むろん、編集者とライターは運命共同体だよ。けどさ、見くびってもらっちゃ困るな、おれの編集資質。こう見えて辣腕の冠つきなんだぜ」
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刊行予定の全二十巻のうち「ふたり、どことなく似ているから、いいものが書けると思うよ」目くばせされて真理絵が執筆することになったのは「“考える人”ロダンの直弟子の彫刻家・荻原碌山の想いびと、新宿中村屋の創業者・相馬黒光」だった。
近代文化サロンの女王としても有名だが、真理絵が漠然と承知していた前情報は、戊辰戦争で官軍に敗れた仙台藩士の末裔、東京の明治女学校を出て信濃穂高の農家に嫁いだが、夫婦で上京して本郷の東大前にパン店を創業……という程度だった。
だが、当初は義務的に関連資料を繰るうちに取材対象への感情移入がじわじわと深まってゆき、気づいたら黒光さん一辺倒になっていたといういつものパターンで、この職人気質を熟知する先輩が執筆者に推してくれた厚意があらためて胸に沁みる。
で、これまた自然にデスク上の調査はフィールドワークへと移行し、まずは年上の子持ち女性を熱く恋慕した(正直、この心理は謎だが(笑))という若き彫刻家の軌跡を追ってみようと考えたことも、高きから低きに向かう水のごとき流れだった。
かくて、ポンコツの軽自動車をノンストップで走らせ、これまたいつものことだが現地の空気を吸って自分の足で地面を踏んでみて、五感があげる悲鳴を聴いたのだ、未見の土地での山住みがうつ病を誘発したんだ、豪雪地帯の雪国うつと同様……。
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碌山美術館の象徴である教会風の本堂は、低気圧の烈風に攪拌された輝きの粒子にまぶされ、逆光の木洩れ日に三角形の屋根を滲ませていた。数棟の別館がたち並ぶ野趣ゆたかな敷地に、秋明菊、紫式部、吾亦紅など秋の草花が咲きながら揺れている。
一般的には雑草の部類に入る姫女苑までが中庭の花壇に大事に育てられている。そんな点景からも近代日本彫刻界を代表するローカル美術館の誇り&イデオロギーが匂い立つようで、真理絵は思わず中空で揺れる純白の小花にも一眼レフを向けていた。
アトリエを訪れた黒光のむすめが「あっ、かあさんだ!!」と叫んだという等身大のブロンズ「女」、その横で身を投げる「デスペア」、道ならぬ恋に煩悶する「文覚」、国の重要文化財「北条虎吉像」などの代表作をくまなく見てまわること約一時間。
「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」冒頭の一行があざやかな残像を結ぶ宮沢賢治さんの童話『やまなし』の小宇宙さながら青みを帯びた建物から外に吐き出されてみると、白樺や楓など高原の樹木が色づきかけた葉をくるくる翻らせていた。
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