第6章 華やかな中村屋サロン&子どもたち
第44話 木下尚江の勧めで岡田式静坐法に入れこむ 🧘♀️
毎日必ず中村屋に現われ、子どもの病気のときには父親の愛蔵より頼りになる働きをするなど家族以上の家族だった碌山のとつぜんの死に打ちのめされていた黒光に、身近な目も当然ながら温かくはなかった。店へはなんとか出るには出るが、奥へ引っこむと起き上がれなくなる。その病床にも刺すような視線や糾弾の言葉が容赦ない。
(いまさら弁解しようとは思わないし、たとえしたところでだれも聞く耳を持たないでしょうけど、夫婦のことは夫婦にしか分からないのと同様に、碌山とわたしのこともまた、当のふたりにしか分からない微妙なニュアンスがある。片恋の男を掌でもてあそんだ女というのが一般的な評価らしいけど、それならそれでいいとしておこう)
四方八方から見えない礫が飛んで来て、聞こえよがしの批難と妖怪でも見るような視線に絡め取られるわれとわが身を、実践家の黒光は客観的に観察していた。どんなに辛くてもここから逃げ出すわけにはいかないのだし、同じく渦中にある愛蔵からも出て行けと言われないのだから、この際、悪女に徹して七十五日を堪えるしかない。
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穂高時代から距離を置いて交流していた木下尚江が久しぶりにすがたを見せたのは碌山が逝った翌月、五月のことだった。この愛蔵の畏友の代言人(弁護士)は亡母が黒光の羽親だった縁もありなにかにつけて相談に乗ってくれていた。政治演説会場を大いに沸かせる雄弁家も、何事にも一過言ある黒光には一目置いていたのだが……。
相馬夫妻と前後して上京してからは東京毎日新聞社で足尾鉱毒事件を特集したり、幸徳秋水や片山潜らと社会民主党の結成に参加したりしていたが、故郷・松本の母の逝去を機にベクトルを転換して小説を書き始めていた。碌山の美術家仲間とは一線を画す尚江は、黒光を案じて岡田虎二郎が主宰する静坐の会への参加を勧めてくれた。
だが、悲嘆の底にあるとはいえ、他者に勧められて素直に従う黒光ではなかった。「ありがたくはありますが、ご存知のとおり傲慢我執の標本のような身ゆえ、わたしはわたしの道を歩いて行きます」と拒否したのは四面楚歌の自分を嘲笑いたかったからでもある。さすがの黒光も今度ばかりは降参で、翌春には腎臓病の悪化で寝つく。
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四月二十二日、碌山の一周忌が碌山館(碌山の兄・本十と相談のうえ、アトリエ「オブリヴィオン」を中村屋の裏に移転し、一階をアトリエ、二階を子ども部屋に)で開かれたとき、黒光はやっとの思いで身づくろいして出席はしたが「疲れて疲れて骨を抜き去られたように力が出ません」(井口喜源治への手紙)という状態だった。
いや増す煩悶に責められ重体に陥り、医者も匙を投げるような状況でありながら、黒光はまたしても出産する。三女・睦子の誕生だった。自分の身を起こすことも出来ないのに乳飲み子の世話まではとても……やむを得ず、まだ手のかかる四男・文雄ともども、ある程度の年齢に達するまで多摩川べりの里親夫婦に預けることにした。
愛蔵は変わらず万事に拘泥しなかったが、ただそれだけのことで、心理的な頼りになるわけではない。幼いころから親しんで来たキリスト教も、フェリス女学院時代に芽生えた違和感がますます募る一方で、病床の心の拠り所がどこにも見つからない。そこへ再訪した木下尚江がもうひと押しとばかりに勧めたのが岡田式静坐法だった。
尚江の案内でやって来た岡田に言われるまま目を閉じ、二十分後に目を開けると、不思議なことに心身の痛みは雲散霧消して、久しぶりに晴れやかな気持ちになった。明治四十四年、師走に五男・虎雄を出産した黒光はこの子も里親に託す。大逆事件(幸徳秋水逮捕)も、平塚らいてうによる『青鞜』創刊も病床には届かなかった。
翌四十五年の初夏、床上げした黒光は尚江に誘われて日暮里本行寺の岡田の道場に足を運び、以後、朝一番の電車で日参するようになった。自分の行動に周囲を巻きこまずにいられない性癖の復活も快復の証しとして大目に見られ、中村屋に週二回出張して来る岡田の傘下に家族も従業員も置くことに、存分な喜悦を味わうようになる。
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☆碌山さんの逝去と、それに伴う集中砲火の満身創痍から救ってくれた恩人として岡田氏を崇めるのも分からないではないけど、そんなに打ちこんで大丈夫かしら。思い詰めるとほかが見えなくなりがちなひとだから。静坐といってもヨガと同じ腹式呼吸で酸素を体内に採り入れるのだから、病身に効かないわけがないけど。 by真理絵
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