第43話 黒光はなぜ抽斗の碌山の日記を処分したのか 📓



 とつぜんの訃報に驚いたひとたちが集って来て、中村屋は店ごと悲しみに暮れた。未明、兄・本十に付き添われた寝棺は、穂高へ向かうために門を出て行く。浅草から駆けつけてより一度も目を合わせようとしない本十の背が無言で圧迫して来るので、棺に取りすがって泣きくずれながらも、黒光はうしろめたい気持ちに駆られていた。


 黒光を毛ぎらいする高村光太郎は旅先の奈良からもどるとそのまま穂高へ急行し、アトリエが完成したばかりの柳敬助は、房州産の桜の枝を碌山のアトリエに運んで、薄桃色の花びらをちぎって撒いた。愛蔵は故郷の盟友・井口喜源治に宛てた手紙で「名花は先に打ち切られ、雑草のみ長命致し候ように思われ候」と別れを惜しんだ。



      *



 心労で寝こんでいた黒光が孤雁の再訪を受けたのは、碌山の急逝から数日後のことだった。「シスター、ぼんやりしていないで畏友のアトリエを整理してやらなきゃ」そう言われた黒光は生前の碌山から託されていた机の合鍵を持ってオブリヴィオンへ向かう。そして、遺作となった『女』が見つめる前で抽斗を開けて手帳を取り出す。


 それからストーブに点火すると、日々の出来事が克明に記されていると思われる頁を一枚ずつはぎ取って火中に投じる。故人の秘密が他者に知られることがあってはならないと作業に没頭する黒光を孤雁は「シスターはイプセンの『ヘダガブラ』だ」(自分に想いを寄せる男の原稿を焼き捨てる、悪女の代表)と言ってむせび泣いた。



      *



 当然ながらと言っていいだろう、碌山の死後、世間の黒光への風当たりはにわかに強くなった。その急先鋒は高村光太郎で「まれに見る純真なやつが、あんなところであんな死に方をしなければいけなかったのは、みなあの年増女のせいだ。病死と見せた自死とも思われるが、いずれにしてもあの女の仕業だ」と言いふらして歩いた。


 そのうえ『荻原守衛』というタイトルの詩をつくって「角筈の原っぱのまんなかの寒いバラック。ひとりぼっちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを」鋭く黒光を糾弾した。ほかのひとたちもみな右へ倣えのように思われて、いっときの黒光は四面楚歌の被害妄想でがんじがらめだった。



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☆う~ん、どうなんだろうねえ、この日記帳の一件は……。黒光さん自身の筆になる自伝『黙移』が出版されたのは戸張孤雁さんの没後だったので、書かれていることがすべて事実だったかどうか、だれにも分からないわけだけれど、黒光さんをよく思わないひとたちは「あの女は平気で嘘をでっち上げるだろう」と考えたでしょうね。


 生前の碌山さんへの言動をふくめそこまでだったかどうか一概には言えないという気がするけど、道ならぬ恋慕をきっぱり撥ねつけてくれていたら碌山さんも諦めたろうにとか、恋人同士という仲ではなかったと言いながら故人の記録を勝手に処分するのは矛盾しているだろう etc. などの疑念も分からないではないし……。  by真理絵




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