第45話 中村屋サロンのはじまりと画家・中村彝のこと ☕



 大正デモクラシーの時代に入ると、新宿界隈もいっそう活況を呈し始め、とりわけ新宿ステーション青梅街道口から追分に至るメイン通りの商店街はつぎつぎに装いを新たにしていく。当初は書生商売と危ぶまれた中村屋もますます隆盛し、溌溂と働く黒光のもとに文人墨客が集い始め、のちの「中村屋サロン」が始まろうとしていた。


 かつて「かあさん、かあさん」と言って甘えながら碌山が寝ころんでいた茶の間に、口髭をたくわえた美術家たちが蜜蜂のように舞って来て、政治や文学、美術、演劇など広範な話題を熱っぽく語り合うようになった。そのひとりに、画家の中村彝なかむらつねがいた。黒光よりひとまわり下の二十代、どちらかというと陰気な印象の青年だった。


 碌山のアトリエに出入りする美術仲間として彝のうわさは黒光も耳にしていたが、ふたりで話をしたことはなかった。水戸藩の下級武士の末子で、胸を病んで陸軍幼年学校を退学して絵の道を志し、藤島武二や坂本繁二郎などとともに新時代のホープと目されていること、キリスト教の洗礼を受けていることが黒光の知る前情報だった。


 中村屋の敷地にある柳敬助のアトリエが当人の結婚で空いていたので、相馬夫妻の好意(むろん黒光に愛蔵が押しきられたかたちで)を受けた彝はそこで絵を描くことになった。碌山のように食事を一緒に取るように勧められ、当初は遠慮していたが、ひとたび自らの禁を解くと、雪崩れるように中村屋の茶の間に入り浸るようになる。



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 芸術が分からないながらに年下のアーティストが醸し出す空気に惹かれる黒光が、亡き碌山の身代わりを彝に見出したとしても不思議ではなかったかも知れない。魚心に水心、黒光の熱情を察した彝もまた丁々発止の芸術論に応じ、頬を上気させ、目を輝かせ、息を弾ませ、ぐいと膝を近づける様子は、まさに恋する青年のものだった。


 例によって無意識に愛蔵にないものを年下に求める黒光は、そんな雰囲気を愉しみながらも一線を画して寄せつけない。碌山の二の舞と知りながらどうしようもなく人妻の虜になった彝は「かあさんは残忍だ。餌を見せておいて肝心なところから一歩も踏みこませない。かあさんのような悪党はありゃあしない」と言って責め立てる。


 胸の病気が再発して喀血した彝を日暮里の静坐会に連れて行ったのも黒光だった。彝自身はあまり乗り気でなかったが、いかがわしいといえば、これほどいかがわしいものはないと映る岡田虎次郎に心酔して始発で日参する黒光の誘いを断れなかった。

彝は黒光に翻弄される自分に気づいたが、振り幅の大きい愛憎を制御できない。



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 そんなところへ圧倒的な清純さと若さで登場したのが、黒光の長女・俊子だった。穂高の婚家へ人質として置いて来たむすめが義務教育を修了するとき、黒光は東京の女学校への進学を愛蔵に懇願して安兵衛に話をつけてもらった。東京府下滝野川村のミッションスクール・女子聖学院は寄宿制で、俊子は金帰日来の日々を送っていた。


 その俊子を彝の絵のモデルに勧めたのは、ほかならぬ黒光だったので、ふたりはアトリエで天下御免の時間を過ごせるはずだった。が、田舎からひとり出て来て家族にも打ち解けられず友人もいない少女が感性に富んだ画家に恋慕を寄せ始めたことを、男女の機微に疎い(というのが愛蔵の妻への観察眼)黒光は気づかなかった。


 でなければ、母親がむすめにヌードを勧めるなど、あってはならないことである。頬の赤いむすめの田舎っぽさを厭い、生活全般にきびしいしつけを施そうとする母親を怖がっていた俊子は、否も応もなく彝の前に豊満な裸体をさらす。「少女裸像」は展覧会に出品されて大好評を博したが、アメリカ人の女性校長の猛烈な怒りを買う。



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 かたや黒光は静坐仲間のひとり、早稲田大学文学部助教授・桂井当之助とも親交を深めていた。彝と同い年だがいつもスーツを着こんだ学究派の容姿端麗、なにもかも正反対の桂井を中村屋の茶の間に招き、ふたりで向かい合ってイプセンの原書の読解を手始めにトルストイ、ドストエフスキーと進んで、ロシア語の勉強に至る。


 そのころにはアトリエに籠りがちだった彝は、俊子に惹かれる一方で母親の黒光の動向を気に病み、鬱々とした日々を過ごしていたが、黒光が九人目の子・哲子を出産した大正三年の師走、絵の道具一式を携えて、忽然とアトリエからすがたを消した。伊豆大島で保養してもどって来ると、挨拶もそこそこに、日暮里の下宿に引っ越す。


 彝を疑心暗鬼に陥らせたのは桂井当之助の存在だった。自身で裸体モデルを煽っておきながら、いざ彝と俊子が恋愛関係になると、とたんに気色ばんで邪魔立てする。不思議な心の動きをする黒光のことだから、自分への意趣返しに俊子を桂井に結ぼうとしているのではないか。ひとたび疑い出すと、妄想は限りなくふくらんでいく。


 ついに意を決して相馬夫妻当てに手紙を書いた。俊子さんと結婚させて欲しいと。愛蔵はともかく、黒光は頑として聞き入れない。俊子が彝から家出を勧められていることを黒光に打ち明けたので、事態はさらに紛糾、彝の仕打ちを恐れた夫妻は俊子を隠し、激昂した彝は黒光への非難を相次いで友人たちに送りつける騒動になった。



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☆まあ、なんと申しますか、やれやれなことですよね~。中村彝さんの黒光評は「いわゆる物資によって生活している人間と、霊によって生活しようとする人間との争い」に尽きるようですが、困ったことに、わたしもこの観方に賛成なんです。芸術云々を盛んに口にしても、黒光さんほどの実践家はいないように思われますし……。


 それにしても『近代を先駆けた女性たち』シリーズの執筆者に推薦してくださった編集者の先輩の「ふたり、どことなく似ているから……」はどういう意味だったのか気になっています。わたし年下には興味がないですし、第一モテないですし(笑)、全男性の目を向けさせたいなどと、ちらりとでも思ったことはないんですけどね~。

                                 by真理絵




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