第46話 インド人革命家・ボースと俊子の結婚 👰



 日本刀を持ち出したとか桂井の家に投石したという物騒な話が伝えられる中村彝と俊子または黒光との関係性が剣呑になる一方だった大正四年も十一月二十八日、新聞各紙は英国大使が日本の外務省に三人のインド人の身柄引き渡しを求めたことを報じる。敵国ドイツの息がかかった秘密探偵でインド独立運動を企てているという。


 前年の夏に勃発した第一次世界大戦で、日本は英仏などの連合国に加わりドイツと戦う立場にあった。要請を受けた日本政府は当該インド人に国外退去を命じ、いち早く逃げたひとりを除くふたりは居住地の警察に呼び出され、四日後に横浜港から出立するよう指示されたが、待ち構える英国の手で処分されることは目に見えていた。


 この問題になんの関係もないはずの中村屋が唐突な動きを見せたのは、こういう場合に直情的な義憤をたぎらせずにいられない黒光の歯ぎしりせんばかりの義憤を汲み取った愛蔵が、常連客のひとりの新聞記者に情勢を訊ねたことに端を発する。中村彝が使っていたアトリエを隠れ処に提供しようというのがとっさの閃きだった。


 匿われていた国家主義者・頭山満邸から変装して中村屋へ忍んで来たインド人は、アトリエで暮らすことになった。周囲には内緒にしていたが、相愛の桂井当之助には打ち明ける。だが、乳飲み子の四女・哲子が肺炎で身罷って間もなく桂井もチフスで他界する。黒光はのち「ふたりだけのとき、遺骸に魔風を吹かせた」と書いている。



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 その前後には、佐々城豊壽叔母の長女・信子が元夫・国木田独歩に内緒で産んで里子に出し、のち実母・信子に引き取られた浦子が佐世保から上京して来たので、しばらく同居させていたが、結局、落ち着けずに家出されるという一件もあった。それやこれやで周辺が忙しい黒光は、最大の気がかりであった中村彝問題の決着を急ぐ。


 俊子の手紙を受け取った彝がやって来る日、愛蔵を外出させておいた黒光は俊子に付き添って離れず、強く復縁を迫る彝をひとまず俊子から遠ざけることに成功する。そんな出来事をよそにアトリエのふたりのインド人は少しずつ日本の文化に馴染んでいくように見えたが、やがてひとりは出奔して、ラス・ビハリ・ボースだけが残る。


 インド北東部ベンガルの第二階級の生まれで、十六歳のとき家を出て英国人提督に爆弾を投げつけた嫌疑で十六万ルピーの懸賞金をかけられ、カルカッタで日本郵船「讃岐丸」に乗りこんで半年前に神戸港に上陸したという、二十九歳の青年だった。やがて頭山の奔走で国外撤去命令が撤回されたが英国大使館の追手は執拗だった。


 相馬家の一員にまぎれて行動するようにしていても、どうしても偉丈夫の異形は目に立つ。そこで頭山満が言って来たのが、英語が堪能な俊子をボースと結婚させるという提案だった。さすがのわたしもむすめを異国人の妻にするのはとためらう黒光に俊子は珍しくはっきり「行かせてください」と答える。命がけでもかまいません。


 

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 大正七年五月中旬、ボースの親代わりを頭山、俊子の保証人を後藤新平と犬養毅がつとめるというものものしさのうちに頭山邸で行われる結婚式のため、人目を避ける花嫁の俊子は普段着に束髪という軽装で家を発つ。彝や桂井のことで病んでいた黒光は自室の窓から見送り、着流しで袴を風呂敷に包んだ愛蔵のみが付き添った。


 新郎新婦は転々とせざるを得ない状況にあり、それも小暗い路地の奥や崖下の湿地、高い塀の際などおよそ健康的とは言えない暮らしぶりを伝え聞いて、黒光はいまさらながら頭山の要請に従ってむすめを嫁がせたことを悔いる。翌年、戦争が終結してボースが自由の身になるまで一度もむすめ夫婦の家を訪ねることはできなかった。



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☆「わたしは顔を近く寄せて飽かず凝視しておりましたが、生前決して触れなかった死者の頭の毛にそっと触れ、氷の針のような感触に身を慄わせました。象牙細工のような額に触れました。頬に触れました。心のままにその顔を愛撫して、わたしは一種異様な満足を覚えたのであります。わたしはいまひとえに懺悔致すのでありまして、親しい異性の死者の上に、一陣の魔風を吹かせたわたし。ああ、わたしという女はと思い、自分恐ろしさに戦慄立つのであります」        (相馬黒光『黙移』)


 この記述には本当に驚きました。直前に幼いわが子を亡くした母親の身でありながら端整な美男子だったという桂井当之助への執着ぶりには言葉もありません。たとえここに書かれていることが事実だったとしても、あえてそれを告白する必要が見当たりません。懺悔と見せかけた一種の自己顕示だったとも思われたりもしますが……。


 それにしても、一世紀余り前のあの時代に、わが子をいわばお尋ね者のインド人に嫁がせるとは、日本人離れして勇気があるというか向こう見ずというか、一般の感覚では理解の外だったでしょうね。あの黒光のことだから、じつのむすめの幸福よりも頭山にいい顔をしたかったのだろうなんて穿った見方もあるようですが、果たして。

                                 by真理絵




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