第47話 盲目の吟遊詩人/ワシリー・エロシェンコ 🧞



 好んで面倒を引き寄せていると思われても仕方のない黒光は、深い呻吟のつど床に臥しつつ四十代半ばに達していたが、相変わらず女好きな愛蔵への反発としての極度な潔癖症に裏づけられた初々しい少女っぽさ(九人の子の母にして!!)に年増の蠱惑が加味していたのか、ある種の男たちが女王蜂を恋う蜜蜂のように集まって来る。


(わたしがなにをしてもしなくても、どのみち世間はうるさいけど、こちらから誘わなくても自然にみなさんが集まって来るんだから仕方ないでしょう。同業の○▽屋や☆◇屋の女将さんも悔しかったら真似なさったらと言いたくなるけど、そんなことを言ったら、さらに世間を敵にまわすことになるから馬耳東風を決めこむしかないわ)


 学者、画家、彫刻家、役者、作家、新聞記者、社会主義者、国家主義者など二十人近い来客でにぎわう中村屋の茶の間の接待に当たっていたのが、きびしい黒光の目に適った従業員・林静子だった。ある日、その親せきとして訪ねて来た林圭イムギニ、俊子の学友と名乗る朴順パクスンチョンの両名がじつは万歳事件の首謀者だったことを黒光はのちに知る。


(そんな人たちだったなんて聞いてびっくり。そういえばとあとになって気づくこともあったけど、わたしどもはあなた、しがない商売人でございますから、むずかしいことはチンプンカンプンでございますよ。ええええ、おっしゃるとおり多少の義侠心は持ち合わせておりますけど、それだってあなた浪曲や講談の世界みたいなもので)


 自身の第六感だけが頼りの義侠心は人一倍だったが、事件や出来事を産んだ根本の思想には至って関心が薄い性質ゆえ、のちの世に三・一運動と呼ばれることになる万歳事件が朝鮮で勃発した反日独立運動だったこが判明しても気にも留めず、これでますます中村屋も国際的になるねと歳不相応に若々しい目を妖しく光らせるのだった。



      *



 異国出身者も日本人従業員と同様に遇するフラットな風土は単なるパン屋のものではない、さすがはインテリの書生夫婦の店だ。ボースと俊子の結婚もあって、そんな評判が評判を呼び、日本人の知人を介して異国の文人墨客が出入りするようになった中村屋で、とりわけ家族同様に親しくなった客人はワシリー・エロシェンコだった。


 くるくるカールした亜麻色の髪、黒光より十四歳下、ウクライナ出身の盲目の吟遊詩人が演劇青年・秋田雨雀、東京日日新聞記者・神近市子のふたりに伴われて中村屋にやって来たのはボースを匿う四か月前のこと。美しいエスペラント語を話し上質な創作童話を書くエロさんを黒光はひと目で気に入り、その世話に情熱を傾けてゆく。


 遠い国からやって来た貧しい青年を、ボースが引っ越したあとのアトリエに迎えてやったらどうだろうという黒光の提案に、生来の淡白な気質に加えて、遊郭や玄人筋はもとより身近な女中や従業員にまで手を出さずにいられない、その方面にかけてはほとんど病気と思われていた愛蔵も一も二もなく賛成したことは言うまでもない。


(うちの人のあれですか? もうわたし、とっくに諦めております。言って治るものではなし、言うだけ損というものでございましょう。ひと悶着あるたびに店の財産の名義を書き換える件ですか? そりゃあなた、こちらにも防御権というものがございますでしょう。あちこちに子どもをつくられた日には堪ったものではございません)


 この年代の日本の女性には珍しく文学好きで、詩の話にも熱心に耳を傾けてくれ、食事のときは隣につきっきりで介助をしてくれる黒光をエロシェンコはマーモチカ(かあさん)と呼んで傍目も気にせず甘えるようになった。黒光の弾くオルガンに合わせてヴァイオリンを弾くエロシェンコ。ふたりの演奏はぴたりと息が合っていた。


 詮索好きな目に、黒光は碌山や桂井の身代わりを美しい容姿に反して辛辣な批評家でもあるウクライナの青年に求めていると映らないでもなかったが、エロシェンコが思慕を寄せているのは神近市子であることを黒光は承知していた。だが、そのころ、年上の市子は社会主義活動家・大杉栄に夢中だったので報われぬ恋だったが……。



      *



 ふっと中村屋からいなくなった吟遊詩人が上海、香港、シンガポール、ビルマ、インドなどを巡ってもどって来たのは三年後のことで、その間に、神近市子は自分が貢いだ金で大杉栄(妻・保子がいる)がもうひとりの愛人・伊藤野枝と派手に遊び暮らしていることを知り、葉山の料亭・日蔭茶屋で刃傷沙汰に及んで投獄されていた。


(神近さんもまあ男運のわるい……あれだけの才女がいいように丸めこまれて、妻を含めた三人の女とひとりの男が、互いに拘束しない、経済は独立性、あとなんでしたっけ、そんな馬鹿らしい取り決めをして四角関係を保っているなんて正気の沙汰ではありません。もう少し賢い女性と思っていたのですが、こと恋に関してはねえ……)


 出獄した市子は日本の評論家と結婚したが、エロシェンコとは姉弟のように仲がよく、会えば話が弾み、ときに白熱する議論がアトリエの外に漏れるほどだったが、二年後、とつぜんエロシェンコに国外退去命令が出される。相馬夫妻は警察に抗議するが聞き入れられず、神近市子に著作権を託すと言い置いて敦賀港から船で出国した。


(エロシェンコも、朝鮮の林静子と万歳事件の関係者たちも、その後の消息は分からなくなりました。どういう状況であれ探せばなんとかなる日本人とちがって、ひとたび国外へ出ると、とたんにわたしどもの手に負えなくなるのが、中村屋を舞台にした国際交流のウイークポイントですね。みなさん、どうなさっていることやら……)




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