第48話 中村屋サロン「土の会」&俊子と文雄の客死 🪟



 黒光はエロシェンコによく日本の文学作品を読んでやっていたが、あるとき菊池寛『恩讐の彼方に』を原作とする戯曲『敵討以上』を読み聞かせながら「この手のものはひとりの朗読より登場人物ごとに異なる声音で読んだ方が感興が高まるのでは?」と気づいた。秋田雨雀に話すと、京都で脚本朗読会に出席して来たばかりだという。


(わたし、鉱脈を掘り当てたかも知れない。若いアーティストたちに取り囲まれて、それなりの芸術論を闘わせても来たけど、胸の奥底ではクリエイティブな才覚がなく単なる傍観者に過ぎない自分がコンプレックスだった。でも、評価が定まった原作がある朗読なら二次的な芸術が自分のものになるかも知れない。いえ、してみせるわ)


 かくて中村屋の表二階を会場にした「土の会」の発足を思い立つ。回を重ねるごとに盛況になり、やがて朗読だけでは物足りなくなって演劇まで行うようになった。中村屋の株式会社への改組とともに自宅を平河町の元華族邸に移すと、愛蔵に頼んで、そこの土蔵を芝居小屋に改造し、「土の会」を前身とする「先駆座」の公演を催す。


(軌道に乗り過ぎて怖いくらいだわ。この調子では、先年、スペイン風邪で亡くなった島村抱月さんとそのあとを追った松井須磨子さんの「芸術座」のような商業演劇にも乗り出せるかも知れない。そうなればわたしは興行主。ますます面白くなるわね。書生パン屋の女将が芝居小屋の興行主なんて、実と名と、まさに両手に花だわね)



      *



 このころには日本国籍を取得していたボースは坊須を名乗っており、俊子は正秀、哲子の二児を出産したが、大正十四年三月四日、風邪をこじらせて不帰の客となる。享年二十六。因縁の画家・中村彝の逝去から三か月ほど遅れた旅立ちだった。幼いころからこのむすめには苦労ばかりさせて来たと、黒光はあらためてわが身を責める。


(幼い身を穂高にのこして上京したこと、東京へ呼び寄せてからも女子学院の寄宿舎に入れて家庭の温もりを経験させてやれなかったこと、中村彝との愛情問題、いくら頭山満さんのご意向といえど、母親として拒めば拒むことも出来たはずのボースとの結婚……俊子の短い生涯にして来た仕打ちを思うと自分を鬼母と認めざるを得ない)


 悔やんでも悔やみきれない俊子の早逝、劇団「先駆座」に関わっていた有島武郎の軽井沢での情死、また関東大震災などの出来事を乗り越えて中村屋は順調に発展し、昭和二年には従来の店売に喫茶部を新設して店員にルパーシカを着せ、ボース直伝のカリーライス、ボルシチ、中華饅頭と月餅など国際色豊かなメニューで評判を呼ぶ。



      *



 胸の内で吹き荒れる煩悶をよそに、いまや押しも押されもせぬ大店の経営者として華やかに君臨するかに見える黒光のもとに、もうひとつの訃報がもたらされたのは、国家主義者・頭山満の有無を言わせぬ要請のため(黒光としてはそう思いたかった)インド人ボースに嫁がせた長女・俊子を若い盛りで失ってから四年後のことだった。


 ――フミオ アマゾンニテ シス。


 昭和五年の正月も松の内にあまりに短すぎて要領を得ない電報が中村屋に届いた。総じて聡明な兄弟姉妹のなかでは学業成績が芳しくない四男・文雄が、忙しい両親の目が行き届かない土蔵の二階の子ども部屋で従妹の千鶴子と恋仲になっていたことを知った黒光は激昂し、愛蔵にも訴えて海外へ修業に出すことを決めたのだった。


(だから言わんこっちゃない。義姉を亡くした安兵衛が、ひとりでいられるわけないと思っていたけど、案の定、村の女にふたりのむすめを産ませていた。それはいいとしても、決してよくはないが、兄思いの愛蔵が綾子と千鶴子姉妹を引き取ってうちの養女としたときから、今日の事態が分かっていたようなものじゃないの、まったく)


 黒光は仙台出身の島貫兵太夫が創設した日本力行会海外学校へ文雄を入学させる。愛蔵はアマゾンに土地を買ってやった。怒りの治まらない母親に連れられた十七歳の少年は、京大阪を観光して神戸港から船に乗った。気丈な黒光はかたわらで畏怖する息子に「成功するまで絶対に帰国してはいけない」と釘を刺すことを忘れなかった。


(ああ、わたしはなんてひどい母親だったのだろう。若い自分の身体を追う安兵衛の執拗な視線をまざまざと思い出し、自分の息子のなかにも同じ相馬の血が流れていることがおぞましくてならなかった。息子のなかに芽生えた魔性をアマゾンのオゾンに浄めて欲しかった。当分、帰って来るなとは言ったが、まさか亡くなるなんて……)


 文雄は筆まめで、いや、ちがう、強烈なホームシックで心を病んでいたのだろう、はるかに遠い南方の地からしきりに手紙を送ってよこした。そこには、おとうさんとおかあさんの名はこちらでも知れ渡っていて、ぼくは日本の王子と言われています、などと子どもらしい一文もあったのに……黒光は自分のなかの激しさを強く憎んだ。




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