第49話 外に目が向く黒光に徹底反抗する末子・虎雄 🐏 



 苦悶する黒光に追い打ちをかけるように始まったのが、五男・虎雄の反逆だった。それは年ごろの息子にありがちな思春期の反抗の域をとうに超えるはげしいもので、三十六歳はなれた母子ふたりの関係に留まらず、家族や従業員など周囲も巻きこんでの大騒動に発展してゆく。外向きが華やかだけに虎雄は黒光のアキレス腱になった。


 穂高で長女・俊子と長男・安雄が生まれたあと東京で生まれたのは次女・千香子が最初で、次男・襄二と三男・雄三郎はともに早逝し、四男・文雄誕生の翌年生まれたのが三女・睦子、その翌年が五男・虎雄と、三十代半ばの黒光は年子を三人産んだ。三年後に産んだ四女・哲子は早逝したので、実質的に虎雄が末子となった。


(思えばわたしもよくもまあ腹の空いている間もなく産んだものよねえ。なんだか、けものめいていていやだけど、こればかりはわたしの責任じゃないからね、言わなくても分かってもらえると思うけど……なにしろ愛蔵があのとおりのひとでしょう、ふだんは温和なんだけど、そっちの方面となると、どうしようもなかったのよねえ)


 気性の激しい黒光の裏鏡のようにおとなしい(愛蔵の気質を継いだとも言えるが)子が多い相馬家で、最初から穂高で育てられた俊子と、店が忙しくなってからやはり穂高へ預けられていた安雄や、幼くて手がかかるうちは里親に預けられた弟妹たちとちがい、ひとり両親の元で成長した千香子だけは自由闊達な振る舞いが目立った。


(あら、でも千香子だって甘やかしたわけじゃないわよ。中村屋の創業当初に愛蔵と打ち合わせて決めた節約生活を次代にも厳守させるため、千香子には新しい着物は買ってやらなかったし、足袋は穴が開けば繕い、また開けばまた繕いして雑巾みたいになったものを平気で履いて学校へ行ってたわよ、あの子。内心では? さあねえ)


 黒光ゆずりの気質も手伝い家庭でも店でも遠慮なくぽんぽんものを言い、ときにはきびしく叱り飛ばしたりするので、従業員から「鬼軍曹」のあだ名をつけられ、早く奥へ引っこんでくれるようこっそり箒を立てられたりしていた、自分によく似たこのむすめの増上慢は、ひそかに黒光の悩みの種になるのだが、それはそれとして……。



      *



 ぼんやりだった文雄とちがって虎雄は幼いころから利発な子で、小学三年生のとき英語の家庭教師に「smallとlittleのちがいはなんですか?」と質問したり、子どもの目には外にばかり顔を向けたがる妻とは逆に地道な商売ひと筋と映る愛蔵を「とうさんは算術名人だ」と評して、子どもらしくない子と黒光を警戒させたりしていた。


 相馬家の伝統どおり愛蔵の母校の早稲田中学(女子は女子学院)に進んだ虎雄は抜きん出た俊才ぶりでたちまち頭角を現わしたが、同時に少し度を越すほどの義侠心や動植物へのやさしい面がクラスメイトの胸にあざやかで感動的な印象を結んでいた。弱者を援け強い者に歯向かい、嘘や不正を見過ごすことが出来ない好青年だった。


 生一本は店の手伝いでも遺憾なく発揮された。商売でお金を儲けることをよしとしない学生気質で店頭に立ち、販売するチョコレートの高価なことに罪悪感を抱いたり、慎ましい暮らしからなけなしの財布を開く女性や子ども、労働者から相応な対価を受け取ることに抵抗を感じ、ついには小売業にうしろめたさを感じるようになる。


(自分の口ひとつ養えないくせに、あの子ったらまったく生意気なんですから。かあさんはいつも偉そうにしているけど、よそ行きの着物だって、とうさんに勉強のためとか言ってふんだんに取り寄せる書物だって、みんなお客さんから巻き上げたお金でまかなっているんじゃないかなんて、まるで商売を追いはぎみたいに言うんですよ)


 

      *



 どうやら一般の人より振り幅が大きいらしい、その振子が目に見えて危うくなって来たのは中学四年生のときだった。にわかに勉強に興味を失い、生徒と学校の対立騒動が起きたときは、外部から入って来たプロの活動家のアジテーションにだれよりも熱狂的な共鳴を示したというので、黒光は担任に呼び出され厳重注意を受ける。


 それでもなんとか高等学院に進んだ翌年の正月、アマゾンに送った文雄の急逝に慄いた黒光が取った行動は、やはり短兵急に過ぎたと言わざるを得ないだろう。四月になって二年生に進級したばかりの虎雄に自ら退学届けを書かせる。そのうえ、十円札を二枚わたし「これで勝手に暮らしなさい」……まさに縁切り同然の所業だった。


 学生間に広がっていた左翼運動にどこまで加担していたか、まして共産党大弾圧にかかるような行動をとっていたのかどうかは不明だったが、息子の将来を案じる母の説諭はことごとく裏目に出て、外の仲間と隠密裏に連絡を取るようすが見える一方、家族とは話もしなくなっている現状を荒療治で立て直す必要があると黒光は考えた。


(母が子にあまりにも冷酷だとひとは言いますが、果たしてそうでしょうか。わたしとしては可愛い子には旅をの言に従ったまでのこと。お店の経営が軌道に乗ってから生まれた下の子たちは今日の食べ物に事欠く辛さを知りません。だから、あんな甘いことを言えるのです。いま正さなかったら、取り返しがつかないことになりますよ)



      *



 放逐して半年後、とつぜん中村屋の店頭に現われた虎雄は、問屋への支払いと小売り用の釣銭の袋を奪って逃走する。動揺しながらも黒光は淀橋警察署に被害届を提出させ、店のおもてに「わたしどもの五男・虎雄は共産党に入りましたので勘当いたしました。以後、中村屋とはなんの関係もありません」と書いた紙を張り出させた。




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