第50話 母恋の虎雄はどこまでも荒れに荒れてゆく 🪸



 早稲田警察署から虎雄を引き渡しの連絡があったのは、翌昭和六年三月末だった。ドイツやイギリスで遊学しての帰国後、二年間の商事会社勤務を経て中村屋の家業を手伝うようになっていた若旦那こと安雄が引き取りに出向く。黒光は傷ついた息子のために新品の久留米絣、足袋、下着、それに風呂、料理、寝具を整えて家で待った。


 兄に付き添われ久しぶりに帰宅した虎雄は拷問のためか前歯が一本欠けている顔を母にそむけた。虱だらけの着物を脱がせて風呂に入れると全身に疥癬かいせんが出来ている。黒光は聖書の「なんじらの内たれか一百の羊あらんに、もし彼のひとつを失わば九十九を野に置きゆきて……」を思いながら、息子に留守中の出来事を話して聞かせた。


(家業や文化的な人づき合いにかまけて自分の子どもを顧みることがなかったわたしの罪は決して軽くないけど、子どもたちは寛容に許してくれた。ただひとりこの子を除いて……いや、頭脳のきれが抜群なだけに、この子にはこの母の見え透いた嘘や禍々しさが手に取るように分かる、その苦悶の結果とすれば、なんとも痛ましい)


 黙って聞いている虎雄に黒光は敢えて収監の件は触れないでおいた、それが労りというものだろうと。だが、虎雄にすれば、そういう小賢しさが鼻につくのだというところだったかも知れない。たまたま仕事で中村屋に滞留していた仙台の妹・喜久の夫・布施現之助が見かねて「虎雄くんは自分が預かりましょう」と申し出てくれた。



      *



 東北大学医学部教授の布施は左翼学生を扱いなれているらしく、仙台に伴った甥を第二高等学校のドイツ人教師につけてくれた。叔父の監視のもとでみっちり勉強した虎雄は翌春、布施の息子が在学中の佐賀高等学校を受験する。ドイツ語をはじめ学科試験の成績は優秀だったが、二次の面接で思想問題が問われて合格できなかった。


(まったくあの子の度を越した生真面目さといったら……面接のときに本当のことを言わずにおけばいまごろは晴れて佐賀高生でいられたろうに、どうして東京のことをなにも知らない面接官に、敢えて不利になるように話さなければいけなかったのか。一事が万事この調子では本人も疲れる。もう少し融通がきけば世渡りも楽だろうに)


 失意の虎雄を救ってくれたのはカトリックの上智大学だった。日本中行くところがないのかと暗澹たる気持ちだった黒光は、心底ほっとする。だが、虎雄はせっかくの成績上位者のポジションをなげうち、またしても自らを窮地に追いこんだ。大学紛争の責を一身に負って麹町警察署に収監されたことを機に、左翼活動に復帰していく。


(なんだって、あの子はまた自ら問題を抱えこもうとするのか……聞けば他の学生の行為もすべて自分ひとりの責任として名乗りをあげた結果だそうで、見かねた教授や学生たちの陳情がなかったらいつまで留め置かれたことやら。思うだに嘆かわしい。虎雄よ、頼むからおかしな義侠心は持たないで……これは母ゆずりであったか)



      *



 昭和七年八月の朝、散歩先で浴衣すがたのまま私服刑事に連行された虎雄は警察に収監された。十月、仲間と謀った虎雄が、留置場の見張りの巡査の首を絞めたという驚愕の知らせを受けた黒光は、身内からこんな凶暴な者が出たことに恐れおののく。市ヶ谷刑務所の独房に移される前の息子に面会に行くと、褪せた浴衣一枚だった。


 五分間の面会時間に、黒光は家の近況を話した。近く五反田の家に移ること、虎雄に二階の正面に部屋を用意したこと、敷地内に四方千香子夫婦の家もあること、さらに刑務所では規則を守り、率直に過去を反省して未来に目を向けること。母親の真摯な訴えを目の前の息子がどこまで素直に聞いてくれているか心もとなかったが……。


(よもや自分の身内、それもまぎれもないわたし自身が腹を傷めた子から刑務所送りが出るとは考えてもみなかった。世間さまに顔向けできないなんていう段階はとうに過ぎて、どうすればこれ以上の罪を重ねさせずに済むのか、そのことのみに心を砕く日々だけれど、子どもを思う親心がそっくり子に伝わることはむずかしいようだわ)


 この子のため黒光の心身はどれほど傷んだろう。髪は短日で真っ白になり、病身を気丈でカバーして来た脆さが一挙に出たことを知った虎雄は「ぼくはかあさんの健康を喰ってしまった。恐ろしいことです」と書いて来たが、一方で文学や哲学、語学の本の差し入れを甘える。仏教に救いを求めたい黒光には、そのこともさびしかった。




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