第51話 獅子身中の虫・虎雄の恋に黒光は猛反対 🍒



 虎雄が釈放されたのは昭和九年十二月十二日、奇しくもこの反逆の子の二十三回目の誕生日だった。来年は還暦を迎える黒光は、獅子身中の虫である息子の二年にわたる収監ですっかり打ちのめされていたが、新居の二階に用意した八畳の和室にテーブルや椅子、書棚など知識欲旺盛な息子の意に添いそうな家具を整えて帰還を迎えた。


 今度こそ落ち着いて欲しいという母の願いは思いもよらないかたちで現実となる。控え目で気働きがいいので黒光がとりわけ気に入っており、親族にも中村屋の職を用意した女中のシズエに恋心を抱いた虎雄が、きびしい母の目をかいくぐって交換日記を始めたことが発覚する。裏ぎられた黒光の怒りは当然のごとくシズエに向かった。


 秘密の交流の媒介役となった大学ノートの一頁目には「フランスの詩人に倣えば、ぼくは目を開くと独房の鉄格子が見え、閉じるとシズエさんの顔が見えます」という熱っぽい文言が記されていた。ひょんなことから(そういうことに気がまわる千香子がこっそり覗いたのだ)それを知った黒光は、なんていやらしいと目を尖らせた。


「お書きくださったお言葉がもったいなくて涙が出て困ります」で始まるシズエの返信に「虎雄さまの竹を割ったようなご気性は大奥さまから、やさしい思いやりは大旦那さまから受け継がれたものと尊敬申し上げておりました」とつづけられているのを見た黒光の気持ちはさらに粟立つ。んまあ、あの子ったら、生意気にこんなことを。



      *



 それとなく言い聞かせることが出来ない性分の黒光は、凝りもせずに過去の失敗を繰り返した。これが正義だとばかりに人前で声を荒らげて息子の不祥事を告発する。秘恋を無惨に白日にさらされた虎雄は以前にも増して烈しく母を拒み、幼いころからどれだけあんたの暴挙に堪えて来たと思っているのかと、母の人間性まで攻撃した。


 言葉だけでなく手が出て足も出て、生みの母親をめちゃくちゃに打擲した虎雄は「いいか、おまえ自身のすがたをよく見ろ。これがおまえだ」と急所を突いて来た。子どもたちのなかでもっとも似た者同士であるがゆえ反りが合わないことを自覚していた黒光にとって、それは万雷に等しい鬼子の宣言であり、世間の糾弾でもあった。


(わたしの病的な潔癖症を受け継いだ虎雄は少しでも汚れたものを拒否する。あの子の目にわたしという人間は母親のくせに子どもをほったらかして商売や取り巻き連とのつきあいにうつつを抜かし、子どもの心に巣食う虚しさには見向きもしないエゴイスト以外のないものでもないと映っているのだろう。だが、それが事実だから困る)



      *



 母を厭う子の抵抗はますます激烈になり、店から帰宅するなり二階の虎雄の部屋に直行した黒光に罵詈雑言とともに物が投げつけられる凄まじい音が家中に響いた。「おまえみたいなやつは殺してやるからな……殺さないでおくものか、おまえみたいな……」「虎雄、気でも狂ったのですか、おかあさんに向かっておまえだの殺すの」


「いったいだれが狂わしたんだ。おまえのどこにおかあさん面やおふくろ面のできる資格があるというのか。身分のちがいだって? 女中風情だって? 女学校を出ていないって? それがなんだ? 何事もひとの上を行かなくちゃ承知できないインテリ面をしているのに。自分の敷いたレールに子どもを走らせたいんだ」虎雄は吼える。


(あの子がリピートしたことは、まぎれもなくこのわたしの、この口が吐いた言葉。こう並べられると、え、どこの世間知らずの言い草? 時代錯誤も甚だしいと決めつけたくなるけど、残念ながら、これがわたしの本質、偽らざるところだから沈黙するしかない。そして、だからといって是正できない頑固さもまたわたしなんだし……)


 強硬な反対派の千香子と意思表示をしない睦子をよそに、相馬家のなかでふたりの結婚に賛成したのは安雄とボースだった。温厚な安雄は「きょうだいでおまえが一番貧乏くじを引いた」と囁いて虎雄を感涙させる。何事にもクールなボースは「ふたりの恋を邪魔立てする理由を発見することはむずかしい」と何度も飽きずに進言した。




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