第27話 才智ある婦女子の会話は喜ばしきものなり 🪄



 そのころ、相馬家の洋間サロンに集う若者のひとり、荻原守衛(のちの碌山)の出奔を聞いたお良は、うらやましいなと率直に思った。桐生でもどこでも好きなところに行ける独身青年はいい。生計の道が拓けるかどうかはともかく、とにかく行動することが大事なのだ。家にがんじがらめのいまの自分はまさに籠の鳥なのだから。


 洋間の壁に掛けてある長尾杢太郎の油絵『亀戸風景』をためつすがめつ眺めていた守衛さはお良より三歳下、はにかみがちな丸顔の頬の赤い若者で、都会に憧れる年ごろらしく明治女学校出のインテリのお良を見るまなざしが初々しかった。もっともそんな視線は珍しくなく、お良にとっては大勢の若者のひとりに過ぎなかったが……。


 養蚕のつぎの段階である機織りの先進地に出向いて勉強し、穂高を経済的に豊かな村にしたいという青年らしい野望を抱いての家出と聞いたお良の胸に、義姉に勧められて通うとなり町の医院への道すがら、無心に山容をスケッチする守衛に会った春の日がよみがえる。海老茶の日傘をさして歩いて行くと、畦道に立っていたのだ。



      *



 大方の見立てどおり、桐生で金儲けの糸口を見つける夢は簡単に挫折したらしく、わるびれもせずに帰郷した守衛は、明治三十二年が明けると、久しぶりに相馬家に顔を見せた。そのころには禁酒会活動も芸妓置屋設置反対運動も村人から不審の目で見られるようになっていて、洋間での夜ごとのミーティングも鳴りを潜めていた。


 喜源治さと一緒に東京に行くが、かねてより畏敬の念を抱いていた巌本善治先生に会って勉強したいので紹介状を書いて欲しいという守衛に、愛蔵とお良は快諾する。巌本をはじめ有力なクリスチャンに会い、美術館や博覧会、美術学校などを見物して帰郷した守衛は、足しげく相馬夫妻を、もっといえばお良を訪ねて来るようになる。


 ――桑摘みなす姉良子の君と対話数刻。『女學雑誌』のことより宗教上信仰の堅と否とのことにつき談あり。ああ、才智ある婦女子の会話はじつに喜ばしきものなり。


 守衛が日記にそんなことを書いていたとは知らず、お良は亡き弟・文治を可愛がるような気持ちで守衛を歓迎した。以前、明治女学校の友人が訪ねて来たとき、お良に目をかけてくれていた(友人は冷やかし口調だったが、お良にそんなつもりはない)青柳有美が女子生理学の講義を始めたことを知り、軽い衝撃を受けたことがある。


(まあ、なんということかしら。女性教師ならともかく独身の青年教師が女子生理学の講義とは破廉恥きわまりない。学校もどういうつもりでそんな講義を担当させるのかしら。もしかしたら女性がらみのスキャンダルが多いと聞く巌本校長の差し金? まさかねえ、いくらなんでもさような分別のないことは……ああ、若松践子先生)


 黒板に女体解剖図を描いて女性が母になる意義を語ったという。その是非はともかく、ことほどさように、世の中はどんどん進歩しているのに、こんな田舎暮らしでは取り残されそうで、涼風や床を這う小虫にも戦慄を覚えるようになった神経をさらに尖らせていたが、そんな煩悶も守衛と話していると薄らぐような気がするのだった。



      *



 妻を案じた愛蔵は、しばらく松本の木下尚江宅に世話になるようにと連れて行ってくれた。かつて芸妓置屋設置反対集会で大演説を打ったものの「そういうおまえはどうなんだ」と聴衆からヤジられた尚江は、問題となった諏訪の代言人支所に滞留中だったが、大言壮語で小心を隠す癖の息子には出来過ぎた母親が面倒をみてくれた。


(諏訪の遊郭に馴染みの女性がふたりいて、いずれも武家出身だというが、持ち前の優柔不断から拘泥状態を解決する手立ても講じられずに困っているらしい。代言人という職業柄からもどうかと思うけど、あのひとはそういうひとだから、政治より恋愛にうつつを抜かしがちで、手相占いに見てもらえば、女難の相と言われるのでは?)


 やんちゃに動きまわる俊子ともども、女性の鑑と仰ぎたくなる尚江の母親から上げ膳据え膳の労りを受け、実家にもどったようにくつろげた。だが、ずっとそのままというわけにもいかず、穂高にもどればまた元の木阿弥どころか、しばらく離れていた分かえって揺り返しが激しく、お良のうつ症状は悪化の一途をたどるばかりだった。


(わたしがいなくたってびくともしないのがこの家なんだわ。あらゆるものを家長が支配し、そのもとに庇護されている義姉にも、家中の物という物を支配下に置く権限が与えられている。なのに、嫁のわたしときたら、たくさん仕舞ってある手拭い一本も自由にできない。何事もお伺いを立てなければならない身の窮屈さたるや……)


 そんなある日、愛蔵はお良に告げた「嫁して二年半も里帰りしていないのだから、この辺で一度、仙台へ帰ったらいいよ。おれも行くから、しばらく親子三人水入らずで東京で暮らそうよ。兄さには東京の名のある医者に診てもらうと話しておくから」ああ、なんてうれしい。このときほど夫を頼もしく思ったことがないお良だった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る