第4章 夫婦で上京して本郷にパン店を開く

第26話 ああ、もういい加減にしてくれませんか?! 🍈



 村の慣習として新生児の名前は家長がつけるものと決まっていたが、お良はそれを踏襲せず、自分が尊敬する女権活動家の名前を初子につけた。無視したのではない、知らなかっただけだと言いたげだが、そんな言い訳など通用するはずがない。それを黙って受け入れる愛蔵も愛蔵だし、夫婦そろっておれの顔に泥を塗ったわけだぞ。


 温容な風体の安兵衛が初孫の命名についてどう思っているか、お良はことあるごとに思い知らされることになった。直接そのことをなじるわけではないが、育児書に基づく都会風の子育てが気に入ってはいないことを、大柄な身体をゆすっての苛立ちで示す。夫を信奉する義姉が影のように寄り添い、日常的な圧迫が新米母を脅かした。


 俊子が泣くと、お良はしばらく家事のつづきをしながら乳なりおしめ替えなりの乳児の要求を探っているが、育児書の知識がない義兄夫婦には少しの間が待てない。赤ん坊が泣き出すと、ふたりとも、びくっと全身で反応して「おい、泣いているぞ」「ねえ、泣いていますよ」いつまでも泣かせておく嫁の怠慢を責め立てるかのよう。


 自ら「おじいさま」「おばあさま」と名乗り始めた義兄夫婦がいかに初孫の俊子を愛しんでいるかお良にもひしひしと伝わって来る。それは本当にありがたいのだが、初産と育児でへとへとで、慢性的な頭痛に悩まされる身のさらなるストレスになる。一刻も早く泣きやまさせようと頻繁に乳をふくませ、消化不良や発熱を誘発する。


 お良は授乳時間を守らなかった自分の責任だと苦しんだが、義兄夫婦は自分たちの過干渉が遠因とはつゆほども思わず、かえって「育児書も当てにならんもんだなあ」皮肉めいたことを言うので、熱のある子に乳をふくませるお良は内心で「ああ、もういい加減にしてください、余計な口出しは……」さらに懊悩を深めることになった。



      *



 だが、事態は好転どころか深刻を深める一方で、むしろ智恵がつかない乳飲み子のうちはまだよかったことを、時系列でいやというほど思い知らされることになった。なにをしても大甘で目を細めるばかりの祖父母と、この子の将来のためを思ってNOはNOと叱る母親では、もの心がつき始めた俊子の懐きが異なって来て当然だった。


 食事のときも家族のだれそれの膝から膝へ渡り歩かせられ、ほんの少しのあいだもひとりでいることができない。そんなことが常態化しているむすめの成長を案じても、義兄夫婦はもちろん、物事に淡白な性格が裏目に出て「まあ、そう尖らなくてもいいだろう。兄さんたちも可愛がってくれているんだし」夫も、すっと目を逸らす。


 お良ひとりがやきもきするばかり、一日中、気の晴れるときがない。明治女学校時代の友だちから届く手紙にもそのようなことが書いてあったりしたが、若い母親同士で悩みを打ち明け合い、愚痴を聞き合い、励まし合い、なるべくストレスを溜めこまないようにすることはいまの環境で望むべくもなく、お良の焦慮は増幅するばかり。



      *



 相変わらず一人前の働き手として扱ってもらえないことも個人のアイデンティティとして不満だったお良は、秋の日、東京から取り寄せた乳母車(これがまた批難の的になった)に一歳の俊子を乗せると「相馬本家の嫁に稲刈りをさせたのでは世間体が立たない」と言う安兵衛や義姉に見つからないよう、こっそり田んぼへ出かけた。


 俊子を畔に遊ばせ、見様見真似で稲を刈ったが、ほとんど刈り進まないうちに腰が痛くなり、気づけば早くも夕日が山に隠れている。途方に暮れて遠くを見やれば家路を急ぐ農夫の影が刈田に長く引いている。お良の思いは遠く東京に飛んで、女学校の壁で朝夕に親しんだイタリアの画家によるスイスの農村の風景をなぞっていた。


 青白い顔をして不調を訴えてばかりいるお良を案じた義姉の勧めにより、となり町の医院に通院するようになったが、行く道にも帰る道にも難儀が待ち受けていた。決まって通らなければならない花見に悪童たちがたむろしていて「嫁どん、やあい」と囃しながら水をかけて来るので、大事な着物を駄目にするなど、さんざんだった。


(あのおとなしい義姉さんが、夫の安兵衛の施術よりも西洋医術のほうが信頼できると判断し、さらに、それを口にしたことには驚いたわ。なにも言えない、なにも分からないと侮っていたけど、もしかしたら、なにもかも分かっていたりするのかしら。そう思えば、義姉さんも江戸期と変らない封建家庭の犠牲者といえなくもないわね)


 大事な着物を駄目にしてまでの医院通いでも一向に快復しないお良を見かねた義姉がつぎに勧めてくれたのは、松本での灸治療だった。仙台の生家では、身体にあとが残るといけないと女子の灸は禁じられていたが、いまはそうも言っていられず、愛蔵に連れられて老女の灸院に行ったが、あまりの熱さの苦痛に長くはつづかなかった。




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