第28話 布施淡の子は真っ赤なメリンスのベビー服で 👶



 明治三十二年九月十一日、いまだ残暑がきびしいなか、愛蔵・お良・俊子は保福寺峠を徒歩で越えた。嫁入りのときは馬に頼ったが、いまは心の弾むままに足を進め、夫婦で代わるがわる俊子を抱いたりおぶったり……十二里の山道がいっこうに苦にならないのは不思議だった。青木村から上田駅へ出ると、汽車に乗って東京へ向かう。


 窓の隙間から煤が舞いこむ碓氷トンネルで信濃を出た蒸気機関車は喘ぎながら高崎へ向かった。さらに東京へ入ると、窓外の景色はにわかに都会めいて来る。沿線の家並みもこじゃれて見えるし、初秋の日を燦燦と浴びた生け垣も、寒い国のものとは異なる陽気なおもむきで、久しぶりのお良をこぞって歓迎してくれているようだった。


(なんだろうね、この力のみなぎる感覚は……穂高ではついぞ感じたことのなかった身体の内から熱いものが迸り出る感じ。わたしという人間個体をかたちづくる細胞という細胞が大声で生きる喜びをうたっている。戦から帰還した将軍のように高らかな凱歌をあげたがっている。ここよここよ、わたしが自由に呼吸できる場所はここよ)


 日暮里が近づいて列車が徐行し始めると「ゴーン」上野の鐘の音がとびこんで来た。ああ、わたしはこの音が聴きたかったのだと思うとなみだが頬を伝い、幼い俊子を驚かせた。かあさんは悲しくて泣いているのではないと言い聞かせられ、こくんとうなずく子どもの仕草が愛おしく、来し方を思ったお良は、またひとしきり泣いた。



      *



 本郷の帝大病院の近くの森本館で疲れを休めたお良は、俊子を連れて仙台へ里帰りする。六百坪の武家屋敷を追われて転々とした末に城下でも場末の北四番町に落ち着いた星家には、家計のやりくりにやつれた母と、老いさらばえて小さく縮んだ祖母、それに相変わらず精神状態の不安定な姉の蓮子、三代の女三人が陰気に住んでいた。


 お良は積もる話をしようと勢いこんでいたが、母は目を逸らし、言葉づかいまであらたまった他人行儀なもてなしをくずそうとしない。明治女学校時代に帰省したときは、むすめのことはなんでも聴いておこうと身を乗り出して来たのに、嫁に行ったら三界に家がないということか、ここはおまえの家ではないと言わんばかり……。


 夜っぴて話そうと思っていたのに「子持ちは早く寝なさい」と言われて貧しい座敷に引き取ったお良は、となりの部屋の蓮子の気配に気をつかいながら俊子に子守唄をうたってやり、やり場のない気持ちで添い寝の目を閉じた。あらためて実家の零落が胸に迫って来る。裕福だが窮屈このうえなかった穂高の婚家との差異はどうだろう。



      *



 俊子にも疎外感が分かるのか、簡素な朝食が済むとしきりに「おんも、おんも」と指さすので、連れ出して近所の橋のうえで遊ばせていると、長身の青年が、すらっとした着流しで長髪をかき分けながらやって来るのが目に入った。「あっ、淡さん!!」お良の口から転がり出た小さな叫び声に、こちらを見た青年も切れ長の目を見張る。


 何年ぶりだろうか、とつぜん加藤豊世と婚約して去って行った布施淡との再会に、それほど胸が痛まない自分を知って、お良はちょっと安心したり驚いたり……。ほとんど腹いせに結婚した愛蔵ではあっても、俊子というかけがえのない宝ものが出来たいまは、決してむかしの恋に引きもどされたりはしない、大人になった自分がいる。


(淡さん、周囲の人たちの大方がそう思っていたはずの、いえ、わたし自身が信じて疑わなかったあなたとの結婚、どうして黙って反故にして、豊世のもとに奔ったの? いえ、その前に、例の新聞スキャンダルのときに、なぜ手紙をくださらなかったの? 訊いてみたいことはいろいろあるけど、いまとなってはなにを知っても虚しいだけ)


 すぐそこだからと誘われて布施家を訪ねると、星の家と似たか寄ったかの茅屋で、すっかり所帯じみた豊世が頭の手拭いを取りながら、ぎごちなく「まあ、お良さん、お久しぶり」と腰をかがめた。夫婦に招じ入れられた家のなかには男の子の赤ん坊がいて、真っ赤なメリンスのベビー服に手づくりらしい白いフードをかぶっている。


(「まあ、お幸せそうね」と言えばいいのかしら、皮肉に聞こえるといけないから、そんな話はしないほうが無難? 「おかげさまでわたしはこんなに幸せよ」といえばなおさら皮肉めいて聞こえそうだし……こんな場面を一度も想定していなかったからシミュレーションもしていないし、気まずい。とはいえ逃げ出すわけにもいかない)


 三者三様の思いを抱きながら、その晩遅くまで語り合った。いかにも画家の子どもらしいセンスの赤ん坊と、どこからどう見ても山出しの田舎じみた俊子をつい比べてみるお良は、夫婦から歓待してもらってうれしかったり、うらやましかったり、いや貧乏なこの家の子より俊子は幸せだと思ったり……しんしんと仙台の夜が更ける。




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