第29話 巌本善治からイミシンな「黒光」の雅号を 🌛
愛蔵の待つ東京にもどったお良は、宿近くの帝大病院産婦人科への通院を始めた。といって、すぐに診断が出るわけではなかったが、夫婦の上京を知って旅館を訪ねて来る知人や旧友が多いことが、本当は人好きなお良の気持ちを晴れやかにしていた。穂高の婚家では部屋に引き籠もってばかりいたが、それは本意ではなかったのだ。
まずやって来たのは身内で、姉に倣って明治女学校に進んだ妹の喜久、一時は仲たがいしていた兄の圭三郎、それに国木田独歩と別れて自立し始めた従妹の信子など。次いで結婚祝いに自作の油絵を贈ってくれた画家の長尾杢太郎、また、明治女学校の寄宿舎で面倒をみた後輩たちも誘い合わせて訪ねて来てくれ、宿は陽気に華やいだ。
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お良にとって思いがけなかったのは穂高の守衛さの登場だった。油絵描きを目ざして上京し、巌本善治校長の好意で明治女学校の敷地内にアトリエの小屋を建ててもらって、そこから画学校「不同舎」に通っていることは愛蔵から聞いていたが、素朴な童顔が女学生たちに好かれ、恋愛騒動に巻きこまれて困っているという話だった。
(やれやれ、ぽっと出の純朴な田舎青年がその手のことに熱心な派手な後輩たちの目に留まったというわけね。あなたたちのお相手なら若い教師でも周辺の学生や社会人でも、それこそいくらでもいるでしょうに、なにも泥くさい信濃人を狙わなくても……もっとも一風変わった男性に惹かれる気持ちも分からないじゃないけど)
そんなことを思っているところへ当の本人が現われた。しかも穂高時代とまったく変わっていなかったので、お良は安心するやらおかしいやらだった。兄の目を逃れて羽を伸ばしたい愛蔵はひとりで外出することが多かったので、日を置かずやって来る守衛の相手をお良がすることになり、見舞いにもらった上等の最中でもてなした。
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大学病院の診断が出た。卵巣腫瘍で手術を勧められる。一か月の入院と聞いたお良はヨチヨチ歩きの俊子を愛蔵にゆだねることをためらったが、病気の進行を思えばそうも言っていられず、十二月一日に手術を受ける。愛蔵によると術中に守衛さが見舞いに来てくれたとのことで、その後もたびたび丸顔を見せにやって来てくれた。
――相馬姉を見舞い。本日施術をなし、麻酔薬をかけしときゆえ、ほとんど死せるが如かりし。一時間もつきて看おりしが、のち、辞して帰る。相馬兄もおられず。
――二時間談ず。大いに快方に向かわれ、うれしきことにぞある。いかなる縁にや真の姉の如き思いして、話す間は実に家庭の似て、快き心地せらる。(守衛の日記)
術後の経過はよく、予定より早く退院したお良は森本館で療養することにした。年越の時期でもあり、俊子の子守から解放された愛蔵はひとりで穂高へ帰郷する。かあちゃんかあちゃんと離れない俊子を遊ばせながら久しぶりに筆を執ったお良は、病気報告の身辺雑記「麻酔の記」と評論「夜叉」の二編を『女學雑誌』に送った。
(一時は樋口一葉さんのような文筆家を目ざしたわたし、すっかり田舎の嫁暮らしが板に着いたけど、こう見えてまだまだ物書きへの意欲は失っていないのよ。三年前に早逝して『たけくらべ』などの名作がますます人気を博している一葉さんに追いつくのは無理にしても、並みいる明治女学校の同窓生のなかでは引けを取らないつもり)
その稿で「あまり我儘勝手なることをなす男に、一度、分娩の苦痛を味わいしめ、その渋面を笑ってやりたい心地す。只一度」と痛烈に男性を批判して意気軒高ぶりを示したところ、それを読んだ巌本善治から折り返しの手紙で「黒光」の雅号を与えられた。まばゆさを露骨にしない控えめな照明こそが世に受け入れられるのだと。
(ま、あんなことをおっしゃって!! 夫人の若松賤子先生を亡くされたあと艶聞が絶えないご本人からもっともらしい訓戒をいただくなんて、明治女学校の卒業生として誉れの至りというものだわ。まあ、それはともあれ、てらてらと安っぽい光を放つんじゃなくマットないぶし銀の大人の美、けっこう気の利いたペンネームじゃないの)
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☆本人もまんざらでもない様子なので(笑)本稿でも、お良あらため黒光を使うことにします。ただ、あとから振り返ってペンネームと銘打つほどの執筆上の業績を築けていないことに多少の違和感を覚えないでもないのですが、広い意味での雅号と受け留めれば問題ないのでは? 本人もそれを望んでいるようですし……。 by真理絵
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